#青天ナビ】 円四郎のセリフにあった #役方(やくかた) とは、町奉行や勘定奉行など、行政や財政、裁判などを担当していた役人のこと。#近習(きんじゅう)とは、主君のそば近くに仕える人のことで、職業として確立したのは鎌倉幕府以降といわれています。 #青天を衝け #第3回 #栄一仕事はじめ
#青天ナビ#諍臣(そうしん)とは、君主の間違いを正すために、処罰を恐れず自分の意見をはっきりと言うことができる家臣のこと。#直言の臣 とほぼ同義語ですね。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
#青天ナビ#慶喜 にほれ込んだ #円四郎。 実際、しゃもじの持ち方も知らなかった円四郎に、慶喜みずからおわんとしゃもじを手に取り、給仕の仕方を教えたことが史実に残っています。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
#青天ナビ#おかしれぇ とは江戸の庶民が使っていた言葉で「おもしろい」と「おかしい」を合体させた造語です。江戸時代後期の滑稽本『妙竹林話 七偏人(みょうちくりんわ しちへんじん)』にも登場しています。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
#青天ナビ#栄一 さんが藍玉の番付表を作った話は史実に残っています。「#武州自慢鑑藍玉力競(ぶしゅうじまんかがみ あいだまちからくらべ)」と名づけ、栄一自ら行司役を務め、藍の品質向上に努めました。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
#青天ナビ】 栄一さんの記録によると、17歳のころ父の名代で岡部の陣屋へ出向き #御用金 を申しつけられました。しかし即答しなかったことで代官に一方的にののしられ、怒りをおぼえたそうです。幕府の身分制度に疑問を持ち、やがて倒幕へと気持ちが傾いていきます。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
放送開始から今日で1か月。 たくさんの方にご覧いただきありがとうございます。 第5回は、家族やパートナーを思い、揺れ動く心の物語です。 #青天ナビ も、よろしければ。 それでは今週も、まもなくスタートです。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ#口寄せ とは民間信仰のひとつで、霊を自分の中に憑依(ひょうい)させて、霊の意思を伝える術といわれています。降霊させる人自身を口寄せという場合もあります。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ#玉藻前(たまものまえ)とは、平安時代に鳥羽上皇に寵愛されたという伝説上の美女です。その正体は9本の尻尾を持つきつねの妖怪といわれています。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ#栄一 が修験者を追い払ったエピソードも史実のひとつ。無縁仏が出た年号を尋ねるという機転が、いかにも栄一さんらしい手法です。この時、#市郎右衛門#なか を連れて、室田(群馬県高崎市)の大滝で保養していたのだとか。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ#安政江戸地震 は、1855年に江戸を襲った大地震。震源は江戸直下荒川河口付近といわれています。江戸市中の被害が大きく、地震後の火災でさらに拡大して、1万人近い死者が出ました。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ では、放送にあわせて、歴史の用語解説や小ネタをツイートしています。番組を見ながらでも、見終わったあとの復習にでも、よろしければご覧ください。 第6回「栄一、胸騒ぎ」 まもなくスタートします。 #青天を衝け
#青天ナビ#水戸黄門 のモデルとなった、水戸藩第2代藩主 #徳川光圀。家康の孫です。光圀の官職は中納言であり、中納言は中国では黄門侍郎という官職にあたることから、黄門とも呼ばれました。 #青天を衝け
#青天ナビ#徳川家康 が話していた #常陸帯(ひたちおび)とは、#藤田東湖 が処罰で幽閉されていたときにまとめた著書。斉昭の生い立ちから始まり、斉昭による藩政改革や尊王論について詳しく記しています。東湖の三名作のひとつです。 #青天を衝け
#青天ナビ#徳信院 のセリフは #御所ことば#いもじ#いそがしい#はもじ#はずかしい を意味します。直接その言葉を言うことを避け、「言葉の一文字目+もじ(文字)」で遠回しに表現したもの。宮中で女官たちが使っていた話し言葉です。 #青天を衝け
#青天ナビ#ハリス は牛乳が大好きだったとか。当時、日本では牛乳を飲む習慣がなかったため、入手が困難でした。そんな中、体調を崩したハリスは、近くの農家からようやく牛乳を調達。高額なお金を払って手に入れたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 この時代、力だめしをする #力石 が村々で流行していました。#栄一 さんがお得意回りで訪れた村で参加したところ、肩を並べる若者がなく、ぶっちぎりだったという史実が残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ#尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び、外国を払いのけることです。もとは別々の思想でしたが、水戸学によってこの言葉が打ち立てられました。国内の政治体制への批判と外国に対する危機感が融合した政治思想となって、下級武士を中心に全国に広がりました。 #青天を衝け
#青天ナビ#慶喜 は義祖母にあたる7歳上の #徳信院 と仲が良く、#美賀君 は嫉妬したといいます。二人が謡いの稽古をしているのを邪魔したり、時には慶喜を小突いたり。島津家の書簡には、疑惑を持った美賀君が自害までしようとしたと記されています。幸い命は助かりました。 #青天を衝け
みなさん、こんばんは! #青天ナビ、起動しました。 今日もよろしくお願いします。 第7回「青天の栄一」 まもなくスタートします。 #青天を衝け
#青天ナビ#惇忠#長七郎 に贈った詩は史実に残るもの。みずから国事に奔走したい思いを抑え、弟に託して名をあげさせようとした、兄の切なる願いが込められています。 #青天を衝け
#青天ナビ#うもじ の心がまえとは、#妻 の心がまえという意味。妻を意味するうちかた(内方)の「う」+「もじ」(文字)で作られた #御所ことば です。 #青天を衝け
#青天ナビ#橋公御行状記略(きょうこうごぎょうじょうきりゃく)とは、#慶喜 がいかに優れ、将軍にふさわしい人であるかが書かれている、いわば推薦書。#平岡円四郎 が書いた内容を #橋本左内 が編集したものです。 #青天を衝け
#青天ナビ#思誠塾 は、#大橋訥庵 が日本橋に開いた塾。元は儒学を教える塾でしたが、ペリー来航以降、訥庵が過激な尊王攘夷論者となっため、倒幕をめざす多くの志士が集まる場所となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 27歳の #惇忠 と17歳の #栄一 が藍売りの旅で詠んだ詩は『#巡信記詩(じゅんしんきし)』という漢詩集にまとめられています。ふたりは父親の戒めにもかかわらず、旅の途中で漢詩づくりに明け暮れたそうです。 #青天を衝け