#青天ナビ】 仕事で多忙を極めていた栄一は、篤二の子育てを娘夫婦に任せきりで、父としての厳格さをうまく示せていませんでした。しかし、篤二が妻を追い出そうとしていると知り、“人倫にもとる”とついに廃嫡を決断します。穂積、阪谷両家も、その場で泣き崩れたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ#円四郎 から一橋家仕官への道を提案された #栄一#喜作。記録によると、その場で即答はせず、宿に戻って徹夜で議論したそうです。ついに仕官を決めたものの、「ちょっと理屈をつけて志願しようじゃないか」となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 富岡製糸場の建設で、惇忠は建築資材として、妙義山の樹齢500年の杉の大木に目をつけます。しかし天狗伝説を信じる地元の住民が大反対。それでも惇忠はあきらめず、「日本の近代化のため、妙義山のご神木を使えばきっと天狗様も喜ぶ」と地元の住民を説得したといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 外国に行くからにはいち早くフランス語を習得したいと、船の中でフランス語の文法の授業を受け始めた篤太夫。しかし、船酔いに苦しみます。まともに授業を受けられず、次第にサボりはじめ、フランス語の習得は進まなかったという話も残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 欧州の物価の高さを痛感した会計担当の篤太夫。昭武の住まいについても、山内六三郎と共に連日のように探し回りました。そしてペルゴレーズ街に、貴族の所有するしゃれた3階建ての家を見つけます。そこには厩(うまや)や馬車置き場などもありました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 謹慎中の慶喜は自らの言動を控え、外出もせず、身近な人以外とは会いませんでした。室内にこもり、絵師の中島仰山(なかじまぎょうざん/通称は鍬次郎)から油絵を学び始めます。そして明治2年9月、箱館戦争の終結を機に謹慎が解かれました。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 栄一は、大阪で、再び五代友厚と出会います。 五代の考える“商い”の未来に、栄一は…。 一方、政府では、西郷が“戦が足らん”と意味深な発言をします。 そして、父・市郎右衛門が…。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 戦争の時に限って病気になる栄一。この頃、インフルエンザ発症後に中耳炎を併発。東京を離れ静養したものの、戻ると肺炎にかかり再び病床に伏しました。39度の高熱にうなされ、主治医の高木兼寛らが昼夜交代で治療にあたります。栄一自身もさすがに死を意識したようです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 震災を知った海外の友人たちが栄一の安否を心配し、大使館などを通じて問い合わせがきました。栄一は電報で答え、友人たちに支援を求めます。すると、海外から援助を申し出る知らせが次々と舞い込んできました。 #青天を衝け
#青天ナビ#勘定組頭 とは勘定奉行のもとで役人を統括する職。また、領内の行政や財政に関わる政策提言や事務なども行っていました。気づけば篤太夫は、一橋家で、100人以上の部下を従える身分になっていました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜が禁裏御守衛総督になったにもかかわらず、一橋家が兵をほぼ保有していないことを憂慮した篤太夫は、お金をかけず、領内から農兵を集めることを慶喜に提案します。これまで何度も拝謁を願い出た経験が生きて、願い出てから3日で拝謁を許され、提案は採用されました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 市郎右衛門に勘当を願い出た栄一は、「国が滅亡するような危機に、自分は百姓だからと傍観してはいられない」と熱い思いを語りました。夜通しの説得ののち、市郎右衛門は栄一の思いを受け入れたと伝わります。 #青天を衝け
#青天ナビ#一橋家 #田安家 #清水家 をまとめて #御三卿(ごさんきょう)と呼びます。江戸城内に住まいを持つ、将軍家の親戚です。ここからも将軍の跡継ぎを出すことができました。 #青天を衝け #第1回 #栄一目覚める
#青天ナビ#小御所会議は、慶喜の権力を奪うための場でした。徳川家の領地や慶喜の官位返上を求める辞官納地を議論するも、慶喜を擁護する松平春嶽や山内容堂らと大激論に。結局、実力行使をほのめかした岩倉具視らが会議を押し切り、慶喜に辞官納地を伝えることが決定されました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 喜作は「渋沢商店」を経営していましたが、相場で失敗、大損します。栄一は、資金援助の条件として実業界からの引退を言い渡し、喜作は身を引きました。隠居の地として、今の東京の白金台に住まいを構えます。当時は梅園としても有名で、今もその老木が残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ#ハリス は牛乳が大好きだったとか。当時、日本では牛乳を飲む習慣がなかったため、入手が困難でした。そんな中、体調を崩したハリスは、近くの農家からようやく牛乳を調達。高額なお金を払って手に入れたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ#阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)は漢学者であり教育者。備中で興譲館(こうじょうかん)という学校を設立し、初代館長を務めました。篤太夫が兵集めに苦労していた時に出会い、開国か鎖国かなど、互いの立場を超えて熱く議論を交わし、とても愉快な時間を過ごしたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 日本から届く大政奉還の知らせや幕府の凶報について、使節団の多くは信じようとしませんでした。一方で、以前から幕府の危機的状況を察していた篤太夫は「起こるべくして起きた」と動じなかったそうです。栗本鋤雲はその様子に驚いたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜がやむをえず自らの兵を率いて天狗党(てんぐとう)討伐に向かった際、篤太夫もその一員に加わりました。一橋家の用人・黒川嘉兵衛に従って、秘書のような仕事を担当していたと記録にあります。 #青天を衝け
#青天ナビ#永蟄居(えいちっきょ)とは蟄居よりさらに重い処罰で、生涯にわたって家にこもり謹慎することです。謹慎は解かれる場合がありますが、永蟄居は解かれることはありませんでした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 歌子が結婚した穂積陳重は、財界や政界の有力者ではなく、東京大学法学部に勤める学者でした。栄一は、「長女の歌子には家庭の相談役になってくれる人を」と望んでいたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 円四郎のことを評した #智弁秀逸 とは、知恵があり、物事を分別する能力にたけ、抜きん出た才能の持ち主のこと。左内のことを評した、#才識高邁 とは、学識に優れ、志(こころざし)が非常に高く、優れていることです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 惇忠、長七郎、千代の弟・平九郎の子ども時代を演じるのは #高木波瑠 くん。大きくなったら #岡田健史 さんが演じます。 #青天を衝け #第2回 #栄一踊る
#青天ナビ】 篤太夫は一連の公式行事が終わると、今後の滞在費用のことを考え、ホテルよりも安くすむ方法を探ります。結局、パリ市中から少し離れたシャルグラン街のアパルトマン(アパート)を借りることにしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は、医学博士・北里柴三郎とともに、当時流行し不治の病と恐れられた結核の予防と撲滅に取り組みます。日本結核予防協会を設立し、栄一は副会頭に。機関誌への寄稿や資金集めなどに奔走します。その後、結核予防デーを設けるなど、正しい知識の普及に努めました。 #青天を衝け