#青天ナビ】 昭武と篤太夫の写真を受け取った千代。その返信で、昭武の写真については「輝かしいお姿をありがたくいただきます」とほめ称えました。一方、洋装姿の篤太夫には衝撃を受けたらしく、「情けなき姿」と表現。元の姿に早く戻してほしいと懇願する手紙が残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 満91歳の栄一は、洪水で約1千万人が被災した中華民国のために募金を呼びかけます。病気がちのため、自宅に設備を運び入れ生放送する初の試みでした。放送が始まるとしっかりした声で、水害の深刻さとともに日本の震災時に支援してくれたことを伝え、誠意を尽くしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は、余世を過ごした静岡の市民などから「けいき様」と呼ばれ親しまれていました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 中川宮邸にて、酔いに乗じて暴論を繰り広げた慶喜。島津久光・松平春嶽・伊達宗城の三人を #天下の大愚物(だいぐぶつ)と言い放ちました。この日をきっかけに、参与会議は解体します。 #青天を衝け
みなさん、こんばんは! 第8回「栄一の祝言」 まもなくスタートです。 ついに栄一が結婚。 そして、さまざまなコンプレックスが入り混じるストーリーも...! #青天を衝け #青天ナビ
こんばんは、#青天ナビ です。 いよいよパリへ向けて、物語が動き始めます。 篤太夫も、慶喜も大きな決断をして、新たな道を進んでいきます。 総合テレビの放送は、このあと午後8:15からです。 ※いつもより15分遅れてのスタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は大阪出張から戻り、父・市郎右衛門の危篤の知らせを受けます。翌朝、大雨の中、血洗島へと帰りました。家に着くと父は一時的に回復、栄一が戻ったことをとても喜んだそうです。しかし再び体調は悪化、最期の時を迎えました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫と決別した #真田範之助。真田はこのあと、天狗党に合流するも、水戸藩内の抗争となったため離脱。その後、攘夷決行を目指して鹿島で挙兵しますが、幕府軍に敗れました。江戸に潜伏中、警備中の新徴組に発見されて斬り合いとなり、命を落としました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 “渋沢”の名が、ついに新政府にも知れ渡ります。 新政府からの誘いを受け、篤太夫がとった行動とは…。 一方、静岡では、ようやく慶喜の謹慎が解かれます。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 ひさびさの放送!なので、前回のおさらいを簡単に。 パリ滞在中の篤太夫は、昭武の留学をサポート。 一方、日本では、慶喜が政権を天皇に返上します。 さてパリ組は一体…!? このあと夜8時スタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜が「私の最後の役割だったのかもしれない」と話した #隠遁(いんとん)とは、この世との交わりを断ち、俗世間から逃れて暮らすことです。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 篤太夫は、駿府藩の財政改革に乗り出します。 一方、箱館では成一郎や土方歳三が、新政府軍に必死の抵抗をするも...。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 成一郎(喜作)は、約3年間の獄中生活を経て、釈放されます。これを聞いた栄一は大変喜び、自宅に迎え入れ、厚くもてなします。栄一も喜作も、一度は、もうこの世で再び会うことはないだろうと思っていただけに、かつてないほどのうれしさだったようです。 #青天を衝け
#青天ナビ では、放送にあわせて、歴史の用語解説や小ネタをツイートしています。番組を見ながらでも、見終わったあとの復習にでも、よろしければご覧ください。 第6回「栄一、胸騒ぎ」 まもなくスタートします。 #青天を衝け
#青天ナビ#安政江戸地震 は、1855年に江戸を襲った大地震。震源は江戸直下荒川河口付近といわれています。江戸市中の被害が大きく、地震後の火災でさらに拡大して、1万人近い死者が出ました。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ】 慶喜が徳川宗家を相続し、篤太夫は、実に失望の極であり、割腹を考えるまで思い詰めていたと語っています。また一橋家での仕事が、全て水の泡となり遺憾であるとも…しかし仕事の丁寧さは最後まで変わらず、勘定所の仕事も後任に一つ一つ引き継ぎ、一橋家を去りました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 岩倉具視は激務で倒れガンの宣告を受けるも京都御所の整備・保存の仕事にまい進します。しかし病状は悪化。明治天皇の見舞いを受けた際も起き上がれず、布団に袴を置き礼装の代わりとし、合掌して出迎えたといいます。その翌日岩倉は亡くなり日本初の国葬で送られました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 胃がんで亡くなった岩崎弥太郎。激しい胃痛と吐き気に苦しみながらも、最後まで部下に指示を出し続けました。息絶える直前、いまだ自分がなすことの一割二割しかやっていない、いま一度盛り返したいなど、苦しい戦いの中でこの世を去る無念さを口にしたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 家茂の言葉を現代語訳すると、 「私、徳川家茂は、畏れ多くも征夷大将軍の大任をお受けして、及ばずながら日夜努力してまいりましたが、富国強兵を実現し、天皇陛下や日本の名を海外に輝かせることはできませんでした」 #青天を衝け
#青天ナビ#武田耕雲斎 は天狗党が挙兵した際、時期尚早と諫(いさ)める立場をとっていました。その後、水戸藩の内部抗争で、天狗党の統制はますます乱れていきます。天狗党を率いる #藤田小四郎 から再三の要請があり、耕雲斎は死ぬ覚悟でその首領となることを決めました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 高齢となった慶喜は体調を崩すことも多くなっていました。子どもたちが東京で暮らしていたことや名医の診察が受けやすいことなどもあって、東京・巣鴨へ移住したともいわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜自身も目を通し、手を入れて完成した『徳川慶喜公伝』。慶喜没後5年となる大正7年に、全8巻が刊行されます。栄一が編さんを始めてから、25年の歳月がたっていました。完成後、栄一はこの伝記を慶喜の墓前に自ら献呈しています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 このころ、病床に伏せていた川路聖謨は、江戸開城の知らせを聞き、幕府に殉ずるため切腹した後にピストル自殺を図ったといわれています。早くから諸外国と渡り合い、徳川に忠義を尽くしてきた家臣の悲しい最期となりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 伊藤博文が満州で暗殺されたことを知った栄一。記者にコメントを求められ、伊藤の功績を述べ始めますが、感情を抑えられず涙してしまいます。この日は歓迎の晩さん会を中止し、車中で電報を打つなどして、哀悼の意を表しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 尾高惇忠は、富岡製糸場の初代場長を辞めた後、国立第一銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人を務めます。藍玉製造や販売のノウハウを持っていた惇忠は、東北地方の経済発展にも貢献。実業界の引退後は自適な生活を送り、最後は身を寄せていた栄一の別邸で亡くなりました。 #青天を衝け