#青天ナビ】 栄一は兜町の事務所の書斎で仕事中、震災にあいます。大きな揺れでシャンデリアが落下する中、職員と避難します。その夜、事務所は火災で全焼。慶喜公伝の貴重な資料や西郷や孫文ら友人からの大切な手紙などが焼失、二度と手に入らぬものも多く栄一はとても悔やみました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 謁見式のシーンは、昭武たち日本人パート以外はパリで撮影されました。テュイルリー宮殿は現存しないため、撮影はフォンテーヌブロー城で行いました。ここはシャム王国一行がナポレオン三世と謁見した場所で、その時の様子を描いた絵画を参考に撮影しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 隠居後も喜作の投資癖は抜けず、何度も失敗しては、栄一が後始末をしていました。74歳で喜作が亡くなったとき、栄一は葬儀で「喜作と私は一身分体の間柄だった」と弔辞を読んでいます。また、東京中の米屋が喜作に弔意を表し半旗を掲げたといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は、自分の死後何年かたってから伝記を世に出すことを条件に語り始めます。栄一は、慶喜の伝記編纂作業と同時並行で、慶喜に直接取材する会を開催。この会を、慶喜は昔夢会(せきむかい)と名付けます。飛鳥山の渋沢邸に慶喜を招き、1907年から17回開催されました。 #青天を衝け
#青天ナビ#横浜焼き討ち計画 を決死の思いで止めた #長七郎。長七郎の号泣する姿に周囲は驚いたといいます。「栄一と長七郎は、お互いを刺し違えて死ぬほどの覚悟で対じし、激論は2日間に及んだ」と記録に残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜が舞った能は #知章(ともあきら)という曲目。慶喜を寵愛した将軍・家慶は手を携えて所作を教え、慶喜が知章を舞ったという史実が残っているんです。その姿は本当の親子のようだったとか。 #青天を衝け #第2回 #栄一踊る
#青天ナビ】 富岡製糸場で働く伝習工女は、士族の失業救済で、主に旧士族の10代、20代の娘などが優先的に集められました。後に指導者で長く活躍することも期待され、若手を採用。1日8時間勤務、日曜休暇、有給休暇、食費や寮費、医療費は工場負担など、労働環境に恵まれていました。 #青天を衝け
#青天ナビ#慶喜 は義祖母にあたる7歳上の #徳信院 と仲が良く、#美賀君 は嫉妬したといいます。二人が謡いの稽古をしているのを邪魔したり、時には慶喜を小突いたり。島津家の書簡には、疑惑を持った美賀君が自害までしようとしたと記されています。幸い命は助かりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 夫の無事を祈り、お百度参りをしていた和宮の願いもむなしく、家茂は大坂城で急死。出立前にお土産に望んだ西陣織が届けられ、和宮は号泣したといいます。「空蝉の 唐織衣なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」と、残された者のむなしさを歌に詠みました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 連日の高熱によって激しく衰弱した栄一。慶喜は見舞いに訪れたとき、栄一の手を握って涙を流したといいます。また、明治天皇からも見舞いの菓子が届けられたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 船内では、毎朝7時頃に朝食をとりました。篤太夫は、バターを塗ったパンについて「味甚美なり(とてもおいしい)」と、食後のコーヒーには「頗る胸中を爽にす(気分がすっきり爽やかになった)」と記しています。初めての洋食も抵抗なく受け入れていたようです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 勅許なしで条約を結んだ #井伊 を問い詰めた #慶喜。史料によると、ここで次期将軍が紀州の慶福に決まったと井伊から告げられて「それはめでたい」と答えました。驚いた井伊が「何かご意見は?」と聞くと、慶喜は「ふふん」とだけ言って何も答えなかったそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 平岡円四郎亡きあと、慶喜により幕臣に取り立てられ、目付となった #原市之進。慶喜を将軍にすべく奔走しましたが、その功績を妬む者も多く、平岡に次ぐ佞臣(ねいしん)といわれて暗殺されました。慶喜はまたもや信頼する側近をなくしてしまったのです。 #青天を衝け
#青天ナビ#栄一 が修験者を追い払ったエピソードも史実のひとつ。無縁仏が出た年号を尋ねるという機転が、いかにも栄一さんらしい手法です。この時、#市郎右衛門#なか を連れて、室田(群馬県高崎市)の大滝で保養していたのだとか。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ】 千代は栄一の妻として表舞台に出たり、目立つ仕事をしたりすることを極力控えていました。しかし、栄一が特に熱心に取り組んでいた養育院には高い関心を持ち、娘のうたを連れて、たびたび養育院を訪れては、お菓子をあげたり、世話をしたりしていたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 パリ滞在中の篤太夫に大きな影響を与えたのが、銀行家のエラールです。商人でも軍人と対等に渡りあう姿勢を見せ、金融施設を案内、債券や株式などの金融システムも教え込みます。篤太夫は、国債や鉄道債券の投資で利益を得る体験もし、経済システムの基盤を理解しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫は、欧州各国を巡行したものの、目的を失ったまま帰国したことを嘆きました。平九郎の死、箱館で戦っていた喜作のこと、多くの友の死や離散を知り、こんな有為転変の世の中となってしまったことを嘆息するほかなかった、と記しています。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 栄一、慶喜 それぞれの人生が、今夜ついに交わります。 慶喜が雄藩相手に、孤軍奮闘する姿にもご注目ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 25両(現在の価値では約125万)もの借金を抱えていた栄一と喜作。自炊を始めたものの、最初は米の炊き方もままならず、おかゆになったり、硬すぎたり、試行錯誤したそうです。布団は3枚借りて背中合わせになって寝た、と記録にあります。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜から届いた手紙に対する昭武の返信内容文は、篤太夫が考えました。その草稿(下書き)が残っています。昭武の立場で書かれているものの、徳川300年の歴史を捨てるようなものだ、など慶喜の態度を強く批判するような内容に、篤太夫の心の内を推し量ることができます。 #青天を衝け
みなさん、先週の #青天ナビ はいかがでしたか。 今週も引き続き、ちょっぴり難しい歴史の言葉や小ネタをオンエアにあわせてツイートしてみます。 それでは今週も、まもなくスタートです。 #青天を衝け #第2回 #栄一踊る
#青天ナビ】 もともと身体の強かった五代友厚は、酒もタバコも好みました。しかし40代になると、心臓病や糖尿病を患い、視力が衰えていきます。大阪から東京に移り療養していましたが、黒田清隆と酒を交わした直後に容態が急変、10日もたたぬうちに亡くなります。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫は一橋領を巡るうちに、「ただ幕府からの支給を待つのではなく、たとえ小さい領内でも収入を増やし、領民が富むような策を考えなくてはならない。それこそ自分が本領発揮できることだ」という考えに至りました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ だに。 篤太夫は、久々に故郷・血洗島に帰り、家族や仲間と再会。 そして、駿府では、慶喜とも…。 このあと夜8時からです。 楽しみにしてくんない! #青天を衝け
#青天ナビ】 フランス人技師の飲む赤ワインが、若い娘たちの生き血ではないかといううわさが流れ、富岡製糸場の工女集めは苦労します。それを知った14歳の尾高ゆうは、父・惇忠のために初の伝習工女に志願。この決断は近郷の少女たちにも伝わり、志願者も増え工場は繁栄していきます。 #青天を衝け