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大河ドラマ「どうする家康」第6回「わしの家」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。 #時代考証の呟き #どうする家康
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川氏滅亡の前後に、家康に通じる動きをしたからなのかも知れません。このことは、宿題として残しておきたいと思います。#時代考証の呟き #どうする家康
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も、若君をしっかりと抱き、敵から弓、鉄炮を浴びせられても、自分が楯になるとの気概が画面からも伝わってくる熱演でした。#時代考証の呟き #どうする家康
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記』他)があります。今のところ、家康側から申し入れ、氏真が了承したという説が支持されています。そして何度も申し上げていますように、人質となっていたのは、竹千代一人であり、重臣石川数正が決心の覚悟で今川方に乗り込んでいったのです。#時代考証の呟き #どうする家康
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使用した道具として確かな根拠があるものなのです。 #時代考証の呟き #どうする家康
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で、彼もまた忠次同様、忍びを雇用していたのでしょう。三河国衆が、広く忍びを雇用していたことを推測させる重要な史料といえます。#時代考証の呟き #どうする家康
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大河ドラマ「どうする家康」第6回「続・瀬名奪還作戦」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。 #時代考証の呟き #どうする家康
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あ、念のため、申し添えておきますと、アタクシの #時代考証の呟き は引き続き実施するつもりでありますので、お楽しみに←自分の首を絞めているような気がしないでもない😅😅今回のはちょっと待っててね。
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第5回の時代考証の呟きは以上になります。今宵はここまでにいたしとうござりまする。また次回! #どうする家康 #時代考証の呟き
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師崎には、千賀氏という海の武家がおり、後に徳川氏に仕え、水軍の一翼を担っています。師崎の皆さん、楽しんで頂けましたか? #どうする家康 #時代考証の呟き
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ビールグラスを持ったまま、思わず立ち上がってしまったほどです。恐れ入りました! #どうする家康 #時代考証の呟き
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討ち取り、彼の二人の子供を生け捕りにした)とあるのです。かなり伊賀衆が三河で活動していることがはっきりとわかりますね。ただ拙著『戦国の忍び』では、この事例を入れ忘れてしまいました。残念です。#どうする家康 #時代考証の呟き
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忍びの衣装については、かつての忍者物のような真っ黒な装束はできるだけ避け、暗い衣装ながら、通常の村人ら市井の人々と変わらぬものにしてあるのは、その成果を取り入れたものです。#どうする家康 #時代考証の呟き
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軍隊においては「足軽」に分類され、彼らを統率する指揮官(侍身分)が足軽大将なのです。なので、半蔵が足軽大将だったという事実と整合しますね。永禄期の服部半蔵は、足軽大将として渡辺半蔵守綱、大久保忠佐(忠世の弟)、本多忠真らの同僚とされています。#どうする家康 #時代考証の呟き
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これは歴とした根拠があるのです。忍びたちの活動とも絡んで、実に見事な台詞回しだったと感激しています。 #どうする家康 #時代考証の呟き
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正信の前半生は謎に包まれています。三河一向一揆前に、元康家臣としてどのように活動していたのかも不明です。今回は、冷や飯食いから上に登るきっかけを摑もうとしているという設定になっていますね。これからが楽しみです。 #どうする家康 #時代考証の呟き
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元康のもとへ送られた(氏真は元康を対織田戦にとって必要不可欠な存在であり、かつ頼れる一門衆と認識していた)ことを示すものだろうと思うのです。 #どうする家康 #時代考証の呟き
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訪問はなかったのが事実でしょう。今回のドラマでは、完全なる脚色です。 #時代考証の呟き #どうする家康
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れていません。あくまで和睦(停戦)に留まっていたと考えられます(ただし極めて友好的な意味での和睦)。 #時代考証の呟き #どうする家康
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しかしながら、時代考証担当の一人として、責任は十分に自覚しており、ご批判は甘受します。#時代考証の呟き #どうする家康
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遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。 #時代考証の呟き #どうする家康
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今宵はここまでにいたしとうございます😆また次回! #時代考証の呟き
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氏真に見切りをつけ、今川との同盟を再考するようになったと考えています。詳しくは、拙著『徳川家康と武田信玄』(角川選書)をご覧ください。今回は、戦国期研究において重要な位置を占める、国衆論が見事に反映され、取り込まれた脚色になっていました。#時代考証の呟き
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人質はすぐに殺されてしまいます。しかしながら人質を捨てる判断を下したことで、結果的に奥平氏は戦国の世を生き延び、譜代大名にまで上り詰めたのです。江戸時代、奥平家は殺害された人質の供養を続けていたと伝えられます。 #時代考証の呟き
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永禄4年4月11日の三河牛久保城(城主牧野成定)攻撃です。  #時代考証の呟き