#吾妻鏡 建久3年(1192)9月25日条 \ 姫の前と称する幕府の官女(比奈)が、今夜初めて義時の邸宅に渡りました。比奈は源頼朝のお気に入りで、とても美しい女性だったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)8月9日条 \ 巳の剋(みのこく/午前9時~午前11時)に政子が男児(のちの源実朝)を出産。乳母には、政子の妹・実衣が選ばれました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)7月26日条 \ 勅使が鎌倉に到着。源頼朝が征夷大将軍に任じられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久3年(1192)3月16日条 \ 京より鎌倉に飛脚が到着し、去る13日の寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に後白河法皇が六条殿で亡くなったと伝えられました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 日没になり後白河法皇の御所から退出した頼朝は、続いて閑院内裏に参上して後鳥羽天皇に拝謁。そのあと閑院内裏内の鬼の間にて、摂政・九条兼実と初対面しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月9日条 \ 源頼朝が院御所と内裏に参上しました。後白河法皇に拝謁した頼朝は二人だけで長時間にわたり会談し、治世についても意見を交わしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)11月7日条 \ 源頼朝が大軍を引き連れて入京しました。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤が務めました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建久元年(1190)10月3日条 \ 源頼朝が京へ向けて出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月24日条 \ 願成就院の造営を奉行するため、北条時政が伊豆国へ下向しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)11月6日条 \ 朝廷から奥州征伐の褒美について打診された源頼朝は、自身への褒美は辞退し、軍功のあった御家人は追ってお知らせするという旨の返書を送りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)9月6日条 \ 河田次郎が主人である藤原泰衡の首を持って源頼朝の陣に参上しました。河田次郎は頼朝から譜代の恩を忘れて主人を討ったことを糾弾され、斬罪に処されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)8月22日条 \ 源頼朝が平泉に到着しました。藤原泰衡は姿をくらませ、館は煙と化していましたが、延焼を逃れた蔵には、数えきれないほどの財宝が収められていたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)7月17日条 \ 源頼朝が奥州の藤原泰衡を討伐するため出陣しました。軍勢は三手に分けられ、頼朝率いる大手軍の先陣は畠山重忠が務めました。東海道軍の大将軍は千葉常胤と八田知家、北陸道軍の大将軍は比企能員と宇佐美実政が務めています。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治5年(1189)6月6日条 \ 北条時政が奥州征伐について祈るため、伊豆国北条に伽藍(がらん)の造営を計画し、その事始めとともに供養が行われました。その寺院は願成就院(がんじょうじゅいん)と名付けられ、本尊は阿弥陀三尊。不動・多聞などの仏像も安置されました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 藤原泰衡の襲撃に対し、源義経の家人らが防戦しますが、すべて敗北。義経は(衣河館の)持仏堂に入ると、まず妻と娘を殺し、次いで自害したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1189)閏4月30日条 \ 陸奥国で藤原泰衡が源義経を襲撃しました。これは一つには勅諚、もう一つには源頼朝の命に従ったためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)10月29日条 \ この日、藤原秀衡が陸奥国平泉の館で亡くなりました。死期が迫った秀衡は、義経を大将軍として国務に当たるように、息子・泰衡らに遺言したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治3年(1187)2月10日条 \ 源義経はさまざまなところに隠れ住み、何度も追捕使(ついぶし)の追及を逃れてきましたが、とうとう藤原秀衡を頼って奥州へ向かいました。妻室や子供を伴い、みな山伏や稚児童(ちごわらわ)の姿に変えていたそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)閏7月29日条 \ 静御前が男子を出産しました。源頼朝によって男子であれば命を絶つと決められていたため、義経と静御前の息子は、幼くしてこの世を去ることになりました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 静御前の舞を見た源頼朝は「義経を慕い、別れの曲を歌うとはけしからん」と不満を漏らしますが、これを聞いた政子は「長年の関係を忘れ、義経を慕わないのであれば淑女ではない」と弁明し、静御前を称賛したそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)4月8日条 \ 源頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣(さんけい)し、静御前の舞を観覧。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を担当しました。静御前の華麗な舞によって、八幡宮一帯が壮観なものとなったそうです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月22日条 \ 静御前に対する尋問が行われました。源義経の居場所は知らないと言い張ったままだったそうです。また、義経の子を身ごもっており、出産後には京へ帰るように指示がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治2年(1186)3月1日条 \ 源頼朝の命により、義経の愛妾(あいしょう)・静御前が京から鎌倉に到着しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月25日条 \ この日、北条時政が京へ入り、源義経、源行家の反逆について源頼朝が不満を感じていることを後白河法皇に細かく申し入れました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 文治元年(1185)11月6日条 \ この日、後白河法皇から源義経、源行家の両人を探し出して捕らえるようにという院宣が出されました。 #鎌倉殿の13人