#青天ナビ】 富岡製糸場で働く伝習工女は、士族の失業救済で、主に旧士族の10代、20代の娘などが優先的に集められました。後に指導者で長く活躍することも期待され、若手を採用。1日8時間勤務、日曜休暇、有給休暇、食費や寮費、医療費は工場負担など、労働環境に恵まれていました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 そして来週 8月15日(日) は、第24回「パリの御一新」の放送です。 どうぞ、お楽しみに! #青天を衝け
#青天ナビ】 25両(現在の価値では約125万)もの借金を抱えていた栄一と喜作。自炊を始めたものの、最初は米の炊き方もままならず、おかゆになったり、硬すぎたり、試行錯誤したそうです。布団は3枚借りて背中合わせになって寝た、と記録にあります。 #青天を衝け
#青天ナビ#慶喜 は義祖母にあたる7歳上の #徳信院 と仲が良く、#美賀君 は嫉妬したといいます。二人が謡いの稽古をしているのを邪魔したり、時には慶喜を小突いたり。島津家の書簡には、疑惑を持った美賀君が自害までしようとしたと記されています。幸い命は助かりました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は、九男・誠が爵位を授かったお礼をするために宮中に参内した際、風邪をこじらせ、肺炎を発症。77歳で亡くなります。葬儀委員長は栄一が務めました。将軍職を返上した慶喜は、徳川家代々の菩提寺・寛永寺の墓地に入らず、谷中の公共墓地に眠っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は亡くなる3日前に、見舞客に対して、次の言葉を残しました。 「長い間お世話になりました。百歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度こそは立ち上がれそうにもありません。」
#青天ナビ】 武田耕雲斎率いる天狗党が京に向かっていることを知った慶喜。水戸藩の人々は元は仲間であり、他藩の手に討ち取らせては藩の面目に関わる。であれば自らが軍を起こそうと追討を決意した、と記録に残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 平岡円四郎亡きあと、慶喜により幕臣に取り立てられ、目付となった #原市之進。慶喜を将軍にすべく奔走しましたが、その功績を妬む者も多く、平岡に次ぐ佞臣(ねいしん)といわれて暗殺されました。慶喜はまたもや信頼する側近をなくしてしまったのです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 もともと身体の強かった五代友厚は、酒もタバコも好みました。しかし40代になると、心臓病や糖尿病を患い、視力が衰えていきます。大阪から東京に移り療養していましたが、黒田清隆と酒を交わした直後に容態が急変、10日もたたぬうちに亡くなります。 #青天を衝け
#青天ナビ】 勅許なしで条約を結んだ #井伊 を問い詰めた #慶喜。史料によると、ここで次期将軍が紀州の慶福に決まったと井伊から告げられて「それはめでたい」と答えました。驚いた井伊が「何かご意見は?」と聞くと、慶喜は「ふふん」とだけ言って何も答えなかったそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 隠居後も喜作の投資癖は抜けず、何度も失敗しては、栄一が後始末をしていました。74歳で喜作が亡くなったとき、栄一は葬儀で「喜作と私は一身分体の間柄だった」と弔辞を読んでいます。また、東京中の米屋が喜作に弔意を表し半旗を掲げたといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 最後に「深夜の #イッキ見まつり#青天を衝け』総集編・再放送」をご案内します! 8/8(日)[総合]前0:00~※土曜深夜 ▽総集編①(第1~12回) ▽総集編②(第13~21回) ▽第22回「篤太夫、パリへ」 ▽第23回「篤太夫と最後の将軍」 ※放送から1週間はNHKプラスでも配信!
#青天ナビ】 慶喜は、自分の死後何年かたってから伝記を世に出すことを条件に語り始めます。栄一は、慶喜の伝記編纂作業と同時並行で、慶喜に直接取材する会を開催。この会を、慶喜は昔夢会(せきむかい)と名付けます。飛鳥山の渋沢邸に慶喜を招き、1907年から17回開催されました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 「#毎朝黒豆を100粒食べて牛乳を飲む」といった健康法は斉昭オリジナル。斉昭から慶喜への手紙に残されているんです。 #青天を衝け #第1回 #栄一目覚める
#青天ナビ】 西南戦争の戦地でコレラが発生。帰還兵により感染が拡大します。外国船からもコレラが持ち込まれるなど、明治10年代は何度も流行しました。政府は感染対策を講じますが、警察の患者強制隔離などもあり、政府に不信感を抱いた人々と、しばしば衝突が起きました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 篤太夫と決別した #真田範之助。真田はこのあと、天狗党に合流するも、水戸藩内の抗争となったため離脱。その後、攘夷決行を目指して鹿島で挙兵しますが、幕府軍に敗れました。江戸に潜伏中、警備中の新徴組に発見されて斬り合いとなり、命を落としました。 #青天を衝け
#青天ナビ#安政江戸地震 は、1855年に江戸を襲った大地震。震源は江戸直下荒川河口付近といわれています。江戸市中の被害が大きく、地震後の火災でさらに拡大して、1万人近い死者が出ました。 #青天を衝け #第5回 #栄一揺れる
#青天ナビ】 船内では、毎朝7時頃に朝食をとりました。篤太夫は、バターを塗ったパンについて「味甚美なり(とてもおいしい)」と、食後のコーヒーには「頗る胸中を爽にす(気分がすっきり爽やかになった)」と記しています。初めての洋食も抵抗なく受け入れていたようです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜から届いた手紙に対する昭武の返信内容文は、篤太夫が考えました。その草稿(下書き)が残っています。昭武の立場で書かれているものの、徳川300年の歴史を捨てるようなものだ、など慶喜の態度を強く批判するような内容に、篤太夫の心の内を推し量ることができます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 ついに念願かなった慶喜との拝謁。栄一さんの記録によると、慶喜はただフンフンと聞いているだけでひと言の返事もなかったとのこと。しかし、栄一の建言に注意して耳を傾けているように見えたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 捕らえられた武田耕雲斎らは、敦賀でニシン蔵に収容されます。雪国である敦賀の真冬に裸同然で、腐ったニシンの臭いが充満する蔵に大勢が押し込められるなど、劣悪な環境で最期の時を過ごしました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 フランス人技師の飲む赤ワインが、若い娘たちの生き血ではないかといううわさが流れ、富岡製糸場の工女集めは苦労します。それを知った14歳の尾高ゆうは、父・惇忠のために初の伝習工女に志願。この決断は近郷の少女たちにも伝わり、志願者も増え工場は繁栄していきます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一さんの記録によると、17歳のころ父の名代で岡部の陣屋へ出向き #御用金 を申しつけられました。しかし即答しなかったことで代官に一方的にののしられ、怒りをおぼえたそうです。幕府の身分制度に疑問を持ち、やがて倒幕へと気持ちが傾いていきます。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
#青天ナビ】 夫の無事を祈り、お百度参りをしていた和宮の願いもむなしく、家茂は大坂城で急死。出立前にお土産に望んだ西陣織が届けられ、和宮は号泣したといいます。「空蝉の 唐織衣なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」と、残された者のむなしさを歌に詠みました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 薩英戦争でイギリス海軍の捕虜となるも脱出し、逃亡生活のさなかだった #五代才助。栄一の故郷・血洗島にほど近い熊谷に潜伏していた記録が残っています。 #青天を衝け