#青天ナビ】 栄一は、医学博士・北里柴三郎とともに、当時流行し不治の病と恐れられた結核の予防と撲滅に取り組みます。日本結核予防協会を設立し、栄一は副会頭に。機関誌への寄稿や資金集めなどに奔走します。その後、結核予防デーを設けるなど、正しい知識の普及に努めました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 富岡製糸場の建設で、惇忠は建築資材として、妙義山の樹齢500年の杉の大木に目をつけます。しかし天狗伝説を信じる地元の住民が大反対。それでも惇忠はあきらめず、「日本の近代化のため、妙義山のご神木を使えばきっと天狗様も喜ぶ」と地元の住民を説得したといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ#栄一#円四郎 と出会うきっかけを作ったのは、 #川村恵十郎。恵十郎が一橋家の人材を探していたところ、栄一と喜作に出会いました。ふたりと話し込んだ日の恵十郎の日記には、栄一と喜作は「真之攘夷家」と表現されています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 小栗忠順は薩長に対して徹底抗戦の構えを見せていましたが、慶喜が恭順を決めたことで、戦をあきらめ群馬に撤退。しかし新政府は黙っておらず、かつて幕府の重臣で予算を握っていた小栗を捕縛し、取り調べすることなく、烏川の水沼河原(群馬県高崎市)で処刑しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 19歳の敬三は農科への進路を志望していました。しかし栄一は、実業の道を歩んでほしいと法科を勧めます。75歳の栄一は、羽織はかまの正装で敬三と向き合い、床にすりつけんばかりに頭を下げ、農科をあきらめて後継ぎとなることを懇願しました。 #青天を衝け
#青天ナビ#八百万(やおよろず)の神 とは、日本にまつられている様々な神様の総称です。大隈は「八百万の神が天安河原(あまのやすかわら)に集まり話し合いをした」という言い伝えに倣い、日本中の優秀な人材を政府に集め、新たな国づくりを行うべきであると栄一を説得しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 外国に行くからにはいち早くフランス語を習得したいと、船の中でフランス語の文法の授業を受け始めた篤太夫。しかし、船酔いに苦しみます。まともに授業を受けられず、次第にサボりはじめ、フランス語の習得は進まなかったという話も残っています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜が「私の最後の役割だったのかもしれない」と話した #隠遁(いんとん)とは、この世との交わりを断ち、俗世間から逃れて暮らすことです。 #青天を衝け
#青天ナビ#勘定組頭 とは勘定奉行のもとで役人を統括する職。また、領内の行政や財政に関わる政策提言や事務なども行っていました。気づけば篤太夫は、一橋家で、100人以上の部下を従える身分になっていました。 #青天を衝け
#青天ナビ#栄一 さんが藍玉の番付表を作った話は史実に残っています。「#武州自慢鑑藍玉力競(ぶしゅうじまんかがみ あいだまちからくらべ)」と名づけ、栄一自ら行司役を務め、藍の品質向上に努めました。 #青天を衝け #第4回 #栄一怒る
こんばんは、#青天ナビ です。 天狗党討伐に向かう慶喜、随行する篤太夫、その行方は…。 そして篤太夫は備中での任務を通じて、一橋家で生きていく“自分の居場所”を見つけていきます。 放送はこのあとすぐです! #青天を衝け
#青天ナビ】 仕事で多忙を極めていた栄一は、篤二の子育てを娘夫婦に任せきりで、父としての厳格さをうまく示せていませんでした。しかし、篤二が妻を追い出そうとしていると知り、“人倫にもとる”とついに廃嫡を決断します。穂積、阪谷両家も、その場で泣き崩れたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は、将軍就任のお礼に #孝明天皇 への謁見を予定していましたが、その前日から天皇は発熱。天然痘の兆候があらわれて、2週間もしないうちに崩御しました。慶喜は、将軍就任直後に、大きな後ろ盾をなくしたのです。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 1864年の円四郎の暗殺後も、慶喜は国内で起こる争いの対応に追われます。 そして篤太夫は、円四郎の命を果たすべく…. 放送は、まもなくスタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 第一国立銀行開業のため、政府の要求で手放した三井組ハウス。その際、三井組は政府から莫大な譲渡金を得ます。三野村はこの資金を元に、駿河町に三井の新銀行設立を計画。後に三野村はこの拠点を“ほぼ費用をかけず作った”と満足げに語ったといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 薩摩が主導した雄藩による四侯会議。島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城が長州の処分と兵庫開港について将軍・慶喜と交渉しました。慶喜は兵庫開港を最優先にすべきという考えを譲りませんでした。決着はせず、最後は慶喜が4人を庭園に招き写真撮影して別れました。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 将軍・家茂が病で倒れてしまい… 幕府は?慶喜は? そして篤太夫は…? 人生が大きく揺れ動く回、放送はまもなくスタートです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 日本から届く大政奉還の知らせや幕府の凶報について、使節団の多くは信じようとしませんでした。一方で、以前から幕府の危機的状況を察していた篤太夫は「起こるべくして起きた」と動じなかったそうです。栗本鋤雲はその様子に驚いたといいます。 #青天を衝け
#青天ナビ#阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)は漢学者であり教育者。備中で興譲館(こうじょうかん)という学校を設立し、初代館長を務めました。篤太夫が兵集めに苦労していた時に出会い、開国か鎖国かなど、互いの立場を超えて熱く議論を交わし、とても愉快な時間を過ごしたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 円四郎の死から約半月後、篤太夫はその訃報を知ります。「杖とも柱とも頼みにしていた人」の不慮の災難を聞き、「実に失望極まった」と記録に残っています。一方で、命じられた任務を果たさねばと新たな決意をしました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ だに。 篤太夫は、久々に故郷・血洗島に帰り、家族や仲間と再会。 そして、駿府では、慶喜とも…。 このあと夜8時からです。 楽しみにしてくんない! #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜は大坂から軍艦・開陽丸で江戸に戻りました。朝、浜御殿に上陸し、敷地内の茶屋で休息。朝食がまだだった慶喜に、軍艦奉行・木村芥舟(かいしゅう)がすぐそばの自宅からビスケット缶を取り寄せ差しあげたという記録があります。その後、馬で江戸城に向かいました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 帰国後、江戸は東京に変わり、幕臣は今までと立場が逆転していました。新政府側の役人からひどい扱いを受けた篤太夫。身元について尋問され、見るもの聞くもの甚だ不愉快だったと記しています。そんな中、出迎えて世話してくれたのが一足先に帰国していた杉浦愛蔵でした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 安政5(1858)年、慶喜と美賀君の間に生まれた子は、生後数日で亡くなりました。その後、慶喜が京に移り、離れ離れになったため、二人の間に新たに子どもを授かることはありませんでした。 #青天を衝け
#青天ナビ】 円四郎のことを評した #智弁秀逸 とは、知恵があり、物事を分別する能力にたけ、抜きん出た才能の持ち主のこと。左内のことを評した、#才識高邁 とは、学識に優れ、志(こころざし)が非常に高く、優れていることです。 #青天を衝け