#吾妻鏡 建保7年(1219)閏2月12日条 \ 京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成親王と頼仁親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月9日条 \ 後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇の院宣を届けました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月12日条 \ 北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇の院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 建保7年(1219)3月15日条 \ 政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇の院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月19日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に政所始(まんどころはじめ)が行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 酉の剋(とりのこく/午後5時~7時)に伊賀光季(いがみつすえ)の使者が京から鎌倉に到着し、「去る13日の未の剋(ひつじのこく/午後1時~3時)に、後鳥羽上皇の考えに背いた源頼茂を誅殺した」と報告しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久元年(1219)7月25日条 \ 源頼茂の一党は、合戦の際に内裏の区画内の建物に火を放ちました。これにより、仁寿殿(じじゅうでん)の観音像、応神天皇の御輿(みこし)に加え、大嘗会(だいじょうえ)や即位式の際に使用する蔵人方の装束や霊物などが焼失しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久2年(1220)12月1日条 \ 午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に三寅の着袴(ちゃっこ)の儀が行われました。着袴の儀とは、子どもの成長を祝って初めて袴を身に着ける行事のことです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 去る15日の午の剋(うまのこく/午前11時~午後1時)に後鳥羽上皇が官軍を派遣し、伊賀光季を誅殺しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を五畿七道に下しました。関東分の宣旨はきょう鎌倉に到着し、押松丸という藤原秀康の従者が所持していたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 三浦義村は弟・三浦胤義から届いた書状を持って北条義時のもとへ赴(おもむ)くと、「反逆には加担せず、北条義時の味方として並びない忠誠を尽くす」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月19日条 \ 政子が居並ぶ御家人たちを前に、「源頼朝様が朝敵を征伐し、幕府を開いて以降、その恩は山よりも高く、海よりも深い。三代にわたる将軍の遺跡を守るように。後鳥羽上皇方に付きたければ、今すぐに申し出なさい」と語りかけました。 #鎌倉殿の13人
今夜は #鎌倉殿の13人 の最終回。 [総合]夜8時ほか ※15分拡大版です! 鎌倉幕府の歴史が記された #吾妻鏡 は、#徳川家康 も愛読したと言われています。 鎌倉時代に思いをはせながら、最期を見守ります。 #日曜夜8時は大河ドラマ #どうする家康 nhk.or.jp/kamakura13/?ci…
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元が「上洛と決めてから日がたち、異論が出ていました。日時を重ねていては心変わりをしてしまいます。今夜中に北条泰時一人であっても出立すれば、東国武士は雲が龍になびくように従うでしょう」と進言し、北条義時が特に感心しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 政子が三善康信を招いて相談すると、康信は「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。日数が経過してしまったのは怠慢であると言えます。大将軍一人でも、まず出発されるべきでしょう」と語りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月21日条 \ 大江広元と三善康信の進言を聞いた北条義時は、「両者の意見が一致したのは神仏の御加護である」と語り、泰時に早く出発するように指示しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月22日条 \ 北条泰時が平盛綱ら十八騎の軍勢を従え、京へ出発しました。その後、北条時房、三浦義村らが出発しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月25日条 \ 先月22日からきょうの明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、北条義時のもとでその名簿が書き留められました。軍勢は総勢十九万騎です。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)5月29日条 \ 北条時房・泰時らが大軍を率いて上洛したことが、後鳥羽上皇のもとに伝わりました。朝廷では皆が驚き、肝を冷やしたようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月5日条 \ 夜になって、幕府軍が大井戸の渡しを渡って官軍に戦いを挑み、これを討ち破りました。藤原秀康、三浦胤義らは警固していた場所を放棄し、京へ退却したようです。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 宇治川を挟んで官軍と対峙(たいじ)した北条泰時は、川を渡らなければ勝利できないと考え、浅瀬を調べるように指示。勇士を送り出すと泰時は、敵の矢が降り注ぐ中、民家を取り壊して作った筏(いかだ)に乗って川を渡りました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月14日条 \ 北条泰時率いる幕府軍の奮戦の前に、宇治川を守っていた官軍は敗北しました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月15日条 \ 寅の剋(とらのこく/午前3時~5時)に藤原秀康、三浦胤義らが官軍の敗北を報告。すると後鳥羽上皇は北条泰時のもとに院宣を届け、「この合戦は私の意志ではなく、謀臣らが起こしたものである。泰時らの申請通りに宣下しよう」と伝えました。 #鎌倉殿の13人
#吾妻鏡 承久3年(1221)6月23日条 \ 去る16日に北条泰時が送った飛脚が鎌倉に到着しました。合戦が無事に終わり、世の中が静まった経緯が詳しく記された書状が開かれると、皆が大いに喜びました。 #鎌倉殿の13人