#青天ナビ#五稜郭 は幕府の箱館奉行所として、1857年から7年かけて完成した城郭。星形で5つの角を持つ日本最大の西洋式陣地で、蘭学者・武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう)が設計しました。完成後間もなく、旧幕臣・榎本武揚(えのもと・たけあき)が籠城し箱館戦争が起きます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 飯能で新政府軍に敗れた振武(しんぶ)軍。成一郎と惇忠は現在の群馬県・伊香保に逃れてしばらく潜伏します。その後、惇忠は草津、前橋を経由して血洗島に戻り、成一郎はひそかに江戸へ。蝦夷地を目指す旧幕臣・榎本武揚の艦隊に合流し、五稜郭を占領します。 #青天を衝け
#青天ナビ#駿府藩 は、駿河国、遠江国、三河国70万石を有する、徳川家の新たな領地。慶喜に代わって、田安亀之助(徳川家達)が相続者となりました。幕府が滅びたあと、行き場を失った幕臣の多くが、徳川を頼り、次の仕事もあるかどうかわからないまま移住していきました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 慶喜と再会した篤太夫。この時のことを、6畳ほどの狭く醜い部屋で待っていると、ひょろりと来て、畳に直接しょんぼりと座った羽織はかまの人が慶喜公でした。変わり果てた姿に下げたままの頭も上げられず、涙ばかりでしばらく何も言えなかった、と記しています。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 篤太夫は、駿府藩の財政改革に乗り出します。 一方、箱館では成一郎や土方歳三が、新政府軍に必死の抵抗をするも...。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大久保一翁のセリフにあった #前様(さきさま)とは、前の将軍であった徳川慶喜のことをいいます。 #青天を衝け
#青天ナビ#商法会所 とは、銀行と商社を合わせたようなもの。現金の貸し付けや預金の受付を主軸とし、また農業を盛んにするため、米や肥料の買い付けも行っていました。その後さらに事業を広げ、茶の栽培や養蚕を行う者などにも開業資金の貸し付けを行いました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 ひと足先に帰国した髙松凌雲でしたが、すでに幕府は崩壊。幕府や慶喜に恩義を感じていた凌雲は、蝦夷地で榎本武揚らと合流し、医師として箱館戦争に参加します。箱館病院の院長に就任し、戦傷者を敵味方問わず治療しました。日本初の赤十字の活動ともいわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 箱館戦争のさなか、土方歳三は小姓の市村鉄之助に遺品を託します。届け先は、土方の義兄・佐藤彦五郎の住む東京の日野でした。市村は戦禍をくぐり抜け手紙や写真などを届けました。手紙には、使者(市村鉄之助)のことを頼むという、土方の気遣いも記されていたそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 明治2年3月、新政府軍は8隻の艦隊で品川から北へ向かい、箱館から南下してきた旧幕府軍と交戦して撃破。さらに新政府軍は、海軍と陸軍が青森で合流し、蝦夷地に上陸して松前を攻略。5月11日に箱館総攻撃を開始すると、18日に旧幕府軍は降服。すべての戦いが終結しました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 “渋沢”の名が、ついに新政府にも知れ渡ります。 新政府からの誘いを受け、篤太夫がとった行動とは…。 一方、静岡では、ようやく慶喜の謹慎が解かれます。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 前島来輔(密) は、現在の静岡県磐田市にあった #遠州中泉奉行所 の初代奉行を務めていました。奉行として地域の行政に当たったほか、旧幕臣をはじめ困窮する人々のために「中泉救院」を設置して救済に尽力しました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 謹慎中の慶喜は自らの言動を控え、外出もせず、身近な人以外とは会いませんでした。室内にこもり、絵師の中島仰山(なかじまぎょうざん/通称は鍬次郎)から油絵を学び始めます。そして明治2年9月、箱館戦争の終結を機に謹慎が解かれました。 #青天を衝け
#青天ナビ】 1863年、長州藩の尊王攘夷派であった伊藤博文・井上馨・高杉晋作・久坂玄瑞らは、品川の御殿山に建築中のイギリス公使館に侵入し、館に火をつけて全焼させました。 #青天を衝け
#青天ナビ#アームストロング砲 は、英国の発明家アームストロングが開発したライフル砲。従来の大砲と比べ、射程距離や発射速度が向上しました。イギリスの秘密兵器として薩英戦争で用いられましたが、日本にも輸入されるようになり、第2次長州征討や戊辰戦争で使用されました。 #青天を衝け
#青天ナビ#八百万(やおよろず)の神 とは、日本にまつられている様々な神様の総称です。大隈は「八百万の神が天安河原(あまのやすかわら)に集まり話し合いをした」という言い伝えに倣い、日本中の優秀な人材を政府に集め、新たな国づくりを行うべきであると栄一を説得しました。 #青天を衝け
こんばんは、#青天ナビ です。 新政府で、本格的に仕事を始めた栄一。 栄一は、新たな国づくりのため、特命チーム“改正掛(かいせいがかり)”を立ち上げます。 そして、惇忠との再会も…。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ#改正掛(かいせいがかり)とは、民部省に設置された特別な部署。各部署の垣根を超えて優秀な人材を集め、自由に企画立案し、行政の制度改革を行いました。現在でいうシンクタンクのような組織だといえます。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は当時の政府の姿について、「日々の仕事に忙殺され、なんとなく一日が過ぎて退庁するというありさまで、これでは改正などほど遠い。大きな制度改革を実行するには、まずは新局を作り、新制度について調査する優秀な人材が必要だ」といったことを記しています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は改正掛(かいせいがかり)を軌道に乗せるため、大隈重信に直談判して、静岡藩から杉浦譲、前島密、赤松則良など優秀な人材を引き抜き、政府に登用します。ほかにも洋書を読める人材などをどんどん登用し、仕事が回り始めてとても楽しかったと記しています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一のセリフにあった #建武の中興(ちゅうこう) とは、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が新たに作った、天皇による政治体制のことをいいます。足利尊氏の離反にあい、3年ともたずに崩壊しました。 #青天を衝け
#青天ナビ#蚕卵紙(さんらんし)とは、蚕が卵を産み付けた紙のこと。幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品でした。蚕卵紙の生産は長野、埼玉、群馬など北関東に多く、その生産、販売に関する者は富のある農家でした。 #青天を衝け
#青天ナビ#ポール・ブリュナ は、フランスの製糸技術者です。生糸検査技師として来日し、富岡製糸場の建設や、工場に導入する機械設備の管理を指揮しました。自国フランスから技師や工女も連れてきて、日本の殖産業の発展に貢献しました。 #青天を衝け
こんばんは、 #青天ナビ です。 栄一は、大阪で、再び五代友厚と出会います。 五代の考える“商い”の未来に、栄一は…。 一方、政府では、西郷が“戦が足らん”と意味深な発言をします。 そして、父・市郎右衛門が…。 このあと夜8時から、ぜひご覧ください。 #青天を衝け
#青天ナビ】 当時の政府軍は、諸藩からの借り物の兵力で、岩倉や政府首脳は国防に不安を感じていました。そこで、岩倉は鹿児島に行き、政府軍の中核として薩摩兵を提供させるとともに、兵の統括を西郷に任せる約束を取りつけます。西郷は上京し、参議として政府首脳に加わりました。 #青天を衝け