#青天ナビ】 満91歳の栄一は、洪水で約1千万人が被災した中華民国のために募金を呼びかけます。病気がちのため、自宅に設備を運び入れ生放送する初の試みでした。放送が始まるとしっかりした声で、水害の深刻さとともに日本の震災時に支援してくれたことを伝え、誠意を尽くしました。 #青天を衝け
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「あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」 栄一が進む道を多くの人が示してくれたけれど、根っこはここにあった。 何度も繰り返されたかっさまの言葉、最初はいつだったろうと見返してみれば、何と初回の開始20分。やっぱり根っこは根っこだった。 #青天を衝け
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渋沢栄一最晩年の1931年9月6日、自宅でのラジオ放送に臨んだ栄一と家族と関係者。栄一の左後ろに篤二、右端に兼子、子供たちは栄一の孫たち #青天を衝け
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栄一在宅ワーク(オンライン配信)とか凄い現代的だなって思ったけど、この世界は家康がタブレット使いこなしているからな… #青天を衝け
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待  た  せ  た  な  #青天を衝け
❌土方と共に戦った ⭕土方に助けられた #青天を衝け twitter.com/takeo_horibe/s…
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子母澤寛が『新選組始末記』を出版したのが1928(昭和3年)。彼らをリアルタイムで見てきた当時の八木邸の丁稚奉公などから聞き取りをして書かれた。それでも書斎でくつろいでるおじいちゃんが「それ、ワシの友達やで」とか言い出したら孫はびっくりする。 #青天を衝け
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あの頃、戦争を避けるために尽力し、無駄に終わった慶喜公がかみしめた思いを、今栄一が味わう。 #青天を衝け
#青天ナビ】 敬三は、もっと海外勤務を続けたいと思っていましたが、高齢となった栄一の健康状態がすぐれなかったこともあり、日本への帰国を決意します。帰国後は、横浜正金銀行を辞め、祖父が興した第一銀行へ転職します。 #青天を衝け
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渋沢栄一(左上)、息子の渋沢篤二(中央)、孫の渋沢敬三(右上)、ひ孫の渋沢雅英さん(篤二さんの膝上) 雅英さんは現在96歳 #青天を衝け
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この周辺3つの“ときわ”橋が存在します。   栄一さんが復元に尽力した「常磐橋」、関東大震災により新たに築造された「常盤橋」、元々は市電を通す為に作られた「新常盤橋」   そして部首に注目👀「磐(石)」と「盤(皿)」なんですね...理由は諸説ありです。   #地的に愉しむ青天を衝け #青天を衝け
#青天ナビ】 震災を知った海外の友人たちが栄一の安否を心配し、大使館などを通じて問い合わせがきました。栄一は電報で答え、友人たちに支援を求めます。すると、海外から援助を申し出る知らせが次々と舞い込んできました。 #青天を衝け
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#青天を衝け 関東大震災直後に「焼け出された農民が過激な社会主義者に煽動され裕福な家を襲うという噂があります」ってセリフがあったが、劇中でそれを否定してないってまずいだろ。 主義者は襲ったんじゃなく襲われて虐殺された側だよ!
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#地的に愉しむ青天を衝け   東京駅近くの常盤橋公園に渋沢栄一さんの銅像があります。関東大震災で被害を受けた常磐橋の復興に栄一さんが大きく貢献したからだそうです。   この常磐橋、明治初期に近代都市のシンボルとして建造された橋で唯一現存する貴重かつ美しい橋なんです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 震災直後、家族は満83歳の栄一を心配し、故郷への避難を勧めます。しかし、栄一は「私のような老人が働いてこそ、生きている申し訳がたつ。これしきの事を恐れて長生きしてきたと思うのか。そんな意気地なしでは役には立たぬ」と一喝したといわれています。 #青天を衝け
#青天ナビ】 地震のあと、渋沢家では、庭に急ごしらえの丸太小屋をつくり、家族の寝床としました。不気味な余震が続く中、栄一は横になったかと思うと、間もなく大きないびきをかいて、眠りについたといわれています。 #青天を衝け
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関東大震災被災者の避難所を訪問する 渋沢栄一😌 #青天を衝け
#青天ナビ】 栄一は兜町の事務所の書斎で仕事中、震災にあいます。大きな揺れでシャンデリアが落下する中、職員と避難します。その夜、事務所は火災で全焼。慶喜公伝の貴重な資料や西郷や孫文ら友人からの大切な手紙などが焼失、二度と手に入らぬものも多く栄一はとても悔やみました。 #青天を衝け
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渋沢栄一、人生が長いから「新選組!」から「いだてん」までずっと跨げるのやばい #青天を衝け
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「全てが燃えています」 兜町の事務所には、『徳川慶喜公伝』の編纂資料も保管されていました。 慶喜が手ずから校正したという稿本も、聞き取りを行った昔夢会の膨大な資料も。 後にこれらをじっくり読むことを楽しみにしていた栄一は、資料の焼失を大変悲しんだと伝えられています。 #青天を衝け
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#地的に愉しむ青天を衝け   震災当時は兜町の事務所にいた栄一さん、どうにか飛鳥山邸まで帰宅できたそうです。   その時のルートを現在の地図にしてみましたが、上野公園など迂回しながら帰宅した様子が分かりますね。   #青天を衝け #関東大震災
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左:渋沢栄一(82) 右:徳川家康(13) #青天を衝け
#青天ナビ】 敬三は、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、横浜正金銀行に就職。翌年にロンドン支店勤務となり、3年間イギリスに在住します。銀行で働くかたわら、学問への道を忘れられず、現地の博物館や美術館巡りも積極的に行ったそうです。 #青天を衝け
#青天ナビ】 大正5年の内閣総辞職に伴い、大隈重信は政界から引退します。その後は、妻の綾子と余生を過ごすも体調を崩し、大正11年、早稲田の自宅で亡くなります。日比谷公園で盛大な国葬が行われました。 #青天を衝け
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「真心を込めて切り開いた彼らの道の先を歩んでいるのが、あなた方ということを。」 「国と国の関係が人と人との関わり」 「人間の根っこの心の底の問題」 最終話にして現代にまで響いてくる名言ラッシュ #青天を衝け