【1945年8月6日】 汽車はのろのろと走る。もどかしい 窓の外、 湧き上がっている 巨大な雲。 猛烈な勢い #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 汽車が来た。まずは乗る。ともかく、行こう。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 比治山山道。町側からの負傷者の行列続く はみ出た腸を抱え持つ人、力尽きて横たわる人、点々と 男か女かわからない。めくれた皮膚、真っ赤な肌、真っ黒な顔。顔。顔! #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
#ひろしまタイムライン」。未だダンマリのNHKさん。あなた達は週末で遊んでるかもしれませんが、今回の件で実際にこんなこと言われてるコリアンがいるんですよ。あなた達が新たな差別の種を蒔いてるんですよ。もしかして公共の差別のための放送ですか?さっさと本来の仕事をしてくださいね。
【1945年8月6日】 「お前たち軍人のやり方がわりいけえ、こういうことになったんじゃ。わしゃあ恨むぞ…子供や主人をどうしてくれるっ!」 「それはアメリカにいうことじゃ。自分らは責任とっていつでも切腹してみせますぞ」 「そうじゃ、腹を切れっ!くやしいーっ!」 #ひろしまタイムライン
【1945年8月6日】 参謀長は言う 「‟中国軍管区司令部発表…六日午前八時過ぎ敵B29二機は廣島市を攻撃、落下傘により新型爆弾を投下”。…なぁ、被害はどの程度と言うべきか?」 「“廣島市は全滅”…ですか?」 「馬鹿を言うな!“市内に相当の被害を生じたり” だ」 #ひろしまタイムライン #広島
★スタッフからのお知らせ②★ 今回のブログでは、今井泰子さんの「その後の人生」と、日記には書かれていない8月7日の体験をお伝えします。 原爆・終戦を経て、泰子さんはどんな思いで生きたのか。 ぜひご一読いただければと思います。 nhk.or.jp/hibaku-blog/ti… #ひろしまタイムライン
【1945年8月6日】 ここで、昨夜同僚とウイスキーを飲み、昔話をした。 今朝、爆弾が投下されたほんの三十分前まで私はここにいた。 死んでいたかもしれない。でも、私は、生きている。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月15日】 何だ? 放送局の跡に数名が立ち止まって何かを聴いている。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月15日】 これからは、暗い夜が、明るくなるのだ。 二、三軒先の家ではお経を派手に読む声が響く。もう一軒先からはレコードの流行歌。 賑やかな景色に自然と頬が緩む。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 汽車、進まない 廣島の上空を吹き上げる炎と雲が覆っている。薄汚れた入道雲 #ひろしまタイムライン #広島 #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月8日】 あれは、独で発明した新兵器を米が手に入れて廣島で試したということだ 試した? #ひろしまタイムライン #広島 #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 廣島は全滅、皆と顔を見合わせた 「行こう、廣島へ」 「学校に文書も届けんと」 「歩くんじゃ、ここから」 同じように廣島方面へ向かう人もいる みんな覚悟を決めた #ひろしまタイムライン #広島 #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月9日】 なんと、ソ連が我が国に宣戦布告!! 今のこのような状態でまた攻撃を受けるとなると、一体僕たちはどうなるのだ? 近所の人達が「もう駄目だ」と口にしている。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 トラックが来てる?けが人を運んできた様子 二十名ほど、ガラスで裂傷を負った方々 こんなに一度に来られたら、手当が間に合わない #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月15日】 「日本国民の間に民主主義的な傾向の復活が強化され、宗教、言論、思想の自由、ならびに、基本的人権の尊重を確立」 新聞も変わるのだ。自由に書いていいのだ。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 「君には召集令状が来た。僕が出よう」 本当なら今朝、当直明けの私は義勇隊として建物疎開に出るはずだった。水原君が代わってくれたから、こうして生きている。 明日再び廣島入りし、仲間の生死を確かめる。 それは 生き残った者の義務である。 #ひろしまタイムライン  #広島
【1945年8月8日】 他社にも渡すようにと知事諭告を受け取る。以下抜粋。 「廣島県市民諸君よ、被害は大なりといえども之戦争の常なり。断じてひるむことなかれ」 「速やかに各職場に復帰せよ」 「戦争は一日も休止することなし」 #ひろしまタイムライン #広島 #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 「横暴だ。この惨状を国民の目から隠そうというのか」 「馬鹿野郎ッ!」 記者が憲兵に自転車ごと川に投げ込まれた! 橋の上から #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月8日】 皆いなくなってしまった #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月7日】 積み上げられた広場の死体は、着衣に名札のないものは性別と推定年齢を控え、急ごしらえの焼き窯に運ばれる。 折り重なる全ての犠牲者に家族がいることだろう。しかし、名無しで、誰にも気づかれず、灰にされていく。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
★スタッフからのお知らせ★ やすこさんのツイートは、1945年に今井泰子さん(当時26)が書いた日記をもとにしています。 日記原文👇8/1~7 nhk.or.jp/hibaku-blog/ti… 現代の広島に暮らす3人の女性が日記や資料を読み込み、関係者への聞き取りを行いながら作っています。 #ひろしまタイムライン
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#ひろしまタイムライン の中の人として関わる公務員の伊東さん(37)、広島市議会議員の豊島岩白氏にひろしまタイムラインのことを「開始前に相談」していた。 豊島市議は「貴重なご意見」を伊東さんに授けたもよう。 公共放送の番組に関わる人に、地元政治家はどのような意見を述べたのだろうか?
【1945年8月17日】 将校が箱の上に上がった。みな息を飲む。 「大本営および第二総軍の命令を伝達する。今日の応召者は全員即日帰郷とする。解散!」ワーッと割れんばかりの歓声。 瞬く間にみんな四方八方に散っていった。やれやれ、私も帰ろう。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら
【1945年8月6日】 生きていたっ! 「おじさん、ここよ、ここ」猿宮下の藪で甥と遭遇、母も 私の顔を見た途端「一郎っ!」と母がワっと泣き出す。社で死んだものとばかり思っていたそうだ。 #ひろしまタイムライン #もし75年前にSNSがあったら