最終的には追うのをやめたようだ。(なお、この集落に住民がいたことが最後に公式確認できるのは2015年頃で、2020年現在、住民は誰もいなくなり、この道路も全面通行止めになっている。この犬も、この犬の飼い主も、もうここにはいない。
・海蝕崖の隠し入り江 某所の航空写真を眺めていた際、たまたま発見した場所。現場の周囲に道はなく、藪をかき分けて進むと、切り立った海蝕崖を貫いて海へ大きく口をあけた入り江が現れる。こんなの秘密基地にするしかないじゃないか…。
昔、大陸戦線にいた今90代の人が「日本語も支那語も漢字使ってるしだいたい通じるだろ」と思い、中国人の現地協力者に「油断大敵」と激励書いたら笑い始めたそうで、通訳に訊ねると、「中国語だと『料理用の油を切らすな』みたいな意味になりますよそれ」と言われたという話を唐突に思い出した。
九州の山奥、いくらなんでも時間が止まり過ぎている…。感涙。
お爺さんは語る。 「このあたりは戦争終わったくらいまでは何年かに一回、向こうの利根川から水が溢れて大洪水になるのが当たり前だったんだ。だからここらの家は舟を置いて、洪水になったら家財道具と家族を乗せてやり過せるようにしていた。うちの先祖の命があったのはこういう舟のおかげなんだ」
「馬出没注意ってなんだよ」と思われるかもしれないが、北海道でもこの付近では、戦後まで飼育されていた駄馬(荷物を運ぶための馬)が野生化してそのへんにいる。つまり、私の実家の周りには「野良馬」がいる。北海道は今でも競走馬を多く生む馬産地だが、やっぱりモンゴルか何かなのでは。
…名古屋が完全に雪国と化してるんだが。
先日歩いた峠道の脇に草履がぶら下がっていた。ただの草履ではない、やたらデカいこの草履は「ここから先の村にはこれだけ大きい履物を履いてるよつな大きいヤツがおるんやぞ?」という脅し。つまり「悪いモノ」が村に入らないようにする古いおまじないだった。いわゆるミチキリ民俗の一種。
仲良しのネコが死んで遺体になったら威嚇し始めるネコか…。これ、もしかしたら昔の人が死体を恐れていたことと同根のものじゃないか。日本でも縄文時代からついこの間の昭和まで、死体を恐れる風習が根強くあった。たとえ肉親や思い入れのある人物の「遺体」でも、忌避、恐怖の対象だった。(続く)
本当に北国民の「暦」との感覚のズレは絶望的だ。たとえば卒業式や入学式の「桜」だ。「なんで3月4月に桜咲いてるんだろう。桜は5月に咲くものだろ…。そうか!これは『日本人が門出の場でこうであってほしい』と願う心象的風景なんだな!武士道!九段!」と本気で思っていたくらいなのだ。
関東地方のとある山間部に残る、ひと気のないお寺。そのお堂の奥へ向かう階段には、人の体や腕、脚の形をした金属製の人形(ヒトガタ)が並ぶ異様な光景がある。雨が降りしきる暗い森の中では恐ろしさすら覚えるが、これは参拝者が体の健康や快癒を願って奉納したものだ。 208/365 #斜陽暦
・清浄野菜の記憶 東京と神奈川の境、多摩丘陵。のどかな農村と、開発住宅地が共存する土地の片隅に「清浄蔬菜」なる単語を掲げた廃屋が残っている。「清浄蔬菜(野菜)」とは、単に「きれいに洗った野菜」ではなく「化学肥料で栽培した野菜」をさす。なぜそんなことを明記する必要があったのか(続)
いろいろあった結果、「大正時代の木造旅館の別館で一棟丸ごと一人だけ逗留」という最強の原稿環境を得た。書くぞ…。
銚子電鉄の錬金術ほんと好き。
そして、さらに読み進めるとブニヨドのすぐ裏手に「不入土」と書いて同じく「フニヨド」と読む地区があることを知り、別の地図で確認すると「ブニョウド」と読むこともわかって「これだ!」と舞い上がることになった。ブニヨドの正体は「不入土」! つまりこの地名、中世日本の荘園制度が由来だわ!
これは、北海道のとあるホテルにいる「考えるヒグマ」
古い街並みを探していたつもりが、家ブチ破って生えた松を見つけるに至る(島根県)
背景に東北新幹線が映ったのでコラしてみたけど違和感ないなこれ…。
軍港としての風景だけでは収まらないのが呉の素晴らしさだと思う。
「離農花」とも呼ばれるルピナスは、北海道の開拓廃村の象徴である。6月、北海道にもようやく初夏の気配が見えるころ、峠道の脇、あるいは山菜取りや登山者しかいないような道沿いの草地に、青やピンク、白の花が咲いている。ルピナスの群生は、かつてそこが開拓地として人が暮らしていた証である。
「都会の孫に故郷の風景画を」 過疎地らしい悲しい売り文句だ。けど、孫世代にとってそこはすでに「故郷」ではなく、親に連れられて行った先の「異郷」だ。大きな木造家屋や長いお葬式なんかがある「懐かしい土地」だ。そして彼らは先祖たちの故郷へはほとんど戻らない。悲しい…。 62/365 #斜陽暦
「今はもう川の水が溢れることもなくなった。でもオレの目の黒いうちはこの舟は残しとくつもりだ。あんたみたいに若い者はそういうのも知らんからなあ。あんた北海道の人か。そらなお知らんよな。物残すってのはそういうもんだよな」 お爺さんの目はなんとなく暗かった。たぶん昔何かあったのだろう。
冗談でもなんでもなく釧路以東根室までの道は、厚岸と厚床の街以外、本当に街も施設も、いや家がほぼないんです。風光明媚な美しい原野と草原と海を征く120㎞を、北海道を走り慣れている者でもなければそう耐えられるものではないんです。高速道路?そんなものはない!あるのは120㎞の虚無だッ!
お爺さんの「水害と洪水は違う。水がただ溢れるのと、いろんなモノが混ざった泥水が濁流になって流れてくのはぜんぜん違う。川のすぐそばの人は大変だっただろう。オレらはまだ良かったんだ」という言葉が今でも脳裏に焼き付いている。先日、九州球磨川流域に行った時、お爺さんの顔を思い出したよ…。