・森に埋もれゆく廃校 北海道北部の大森林地帯。その真っ只中に、屋根の抜けた廃校がぽつんと残っている。今では森に還ったここにも当時20戸ほど住人がいた。だが昭和41年に住人は集団離村、先生2名だけが残され、冬以降は学校だけが一つ残された。どうしてそうなったのか(続) 315/365 #斜陽暦
ここで「荘園」について説明する。めちゃくちゃざっくり言うと日本の平安期の律令制崩壊から戦国末期までの中世日本で続いた農地とその地域の支配制度のことだ。要は主に農地を含む不動産とその支配権を指し、現代風に言えば「村単位の巨大な私有地」と「その地域の支配・被支配関係」的なものである。
私の地元には通称「ヨクタカレのボケツ」という場所がある。緩やかな岬の岩礁地帯で灯台もなく、海中にアワビとナマコが大量にいるので密漁者が絶えないのだが実際は潮流が速く岩礁が複雑で体が挟まれて動けなくなり溺死する人が昔からよくいた。なので強欲を意味する方言「ヨクタカレ」の名がついた。
いくら外界と隔絶された山村だからってオート三輪が玄関先に置いてある土地がまだこの世にあったとは…。
あと一番悲しいのは、AIや機械の苦手領域って「人がやらざるを得ないもの」というより「機械にやらせると高くつく一方で、人間の身体的性能は機械として考えるとかなり割安なので人にやらせるのが一番安い」という実態があるのがね…。いわゆる専門性が高い高給職のほうがAIには向いているという。
奥三河に向かったのは春の田植えの頃。山奥を縫うように小さな集落がわずかな水田を抱えて沢沿いに並んでいる姿は、どこか中国山地の鳥取や島根県の中山間地を思わせる。峠を越えるごとに東海の山々を濡らす五月雨も上がっていき、ブニヨドに着く頃には曇り空の下、田植え作業をする人々の姿があった。
歴博で調べてみると、ブニヨドがある足助付近は鎌倉時代末に足助庄として成立し、八条院や昭慶門院、皇室の土地であった。その影響だろうか、この地にいた足助氏は南朝方に付き、室町期に没落した。その後は足助鈴木氏が足助庄を支配し、江戸時代を迎えるころに荘園として解体されたという。
映像の世紀は95年版が原点にして頂点なんですよ。第二集の詩的な悲惨さとなお輝く人間の愚かさ、第三集の栄光と凋落と文学的な現代へと回帰する美しさ、そして第四、五集の「地獄」へ向かうのが完成されつくしている。
ブニヨドは豊田市の東方、山の合間に位置していた。もとは足助町の旧五反田村の中にあり、到着してみると実に典型的な中山間地の農村といった雰囲気で、「ブニヨド」の名は地図には出てきても、その名が書かれた道路看板などはないようだった。とりあえず住んでいる方に話を聞いてまわる。
はあ…正月休みも終わりよ。まあ新年だし、たまには新聞で普段あまり触れない領域の話を探ってみようかな。 …ん?
もう7,8年前になるが、北海道の廃墟化した自動車教習所の神棚にも「天」の字が貼ってあるのを見かけた。風習としては2階建ての家屋が増えた江戸中期以降に発生した比較的新しいものらしいが、「文字」によって物理法則や現実世界を書き換えるのは究極的呪術っぽくて私は好きです。
ちなみになんで毒展に白粉が展示されていたかといえば、当時の白粉は鉛や水銀といった重金属を含み、慢性中毒にかかる人が多かったため。それでも貴重品だったので紀伊半島、特に伊勢や伊賀で生産された白粉「射和軽粉」は大正頃まで化粧品や医薬品として使われ続けた(写真は島根県内の廃医院にて)
周りの地形を改めて観察する。だが本当に沢沿いの田んぼと大きな岩があるのみでブニヨドの音になりそうな自然物はない。強いて言えば、川の「淀み」や川の流れの音から「トドロ」という地名が発生しやすいことにつながるか?と思う程度だった。こうして私のブニヨド訪問は無念に終わった…かに見えた。
北海道に複数ある地名 ・もんべつ(大きな町や都市が同音なので危険度高) ・さっくる(アイヌ語で「夏の道」の意。大字小字クラスで多い) ・るべしべ(道に沿って下る川の意。たまに見る) ・えさし(道南江差とオホーツク枝幸を間違えると死ぬ) ・しべつ(士別と標津を間違うと死ぬ)
そういう創意工夫の領域は人間の専売特許にさせておいておくれやすよ…。AIくんは私の代わりに計算、試算、手続き、運営庶務をですね。ほら、得意でしょキミ(親戚全部が死に絶えでもしたような仏頂面)
高速道路のサービスエリアとお店は、車に置いてけぼりにされた人たちがやってる店だと思っていた。そして自分の代わりに車に乗って脱出する機会を伺っていて、おいて行かれた自分も今度はSAに住みながら出られる日が来るのを待つことになると思っていた。 #小さい頃勘違いしてたやつ選手権
作並駅に来たけどなんだこの北朝鮮の国営テレビっぽさは。
雪が積もらない土地の人、この車を見たことがない説
元日に青森へ行ったとき、フロントグリル部分に正月飾りがつけたトラックが空き地に停まっているのを見てすごく懐かしくなった。2003年くらいまでは正月時期はみんな車に正月飾りつけて走ってた。でも2005年くらいを境に急に消えたんよな…。小学校の冬休みに自由研究の一環で数えてたから間違いない。
行き止まりの漁村の夕暮れで無事情緒が崩壊してしまっていた。卑怯だ…こんなの卑怯だ。秋めく夕暮れの瀬戸、島の上を悠々と渡っていく大きな橋、地元の人しかいない狭い道沿いで夫婦揃って魚釣り、散歩中のご近所さんが釣れるか訊いて家へ戻って行く…。こんなの精神に効かない理由がない。
古い車の愛媛ナンバーには、すごい略字っぷりな「愛媛」表記のナンバープレートが存在する。「愛」とか雨かんむりじゃん。
千と千尋のアレ、ホントにあるんだ…(買った)
にしても、なんで昭和期までは「ブニウド」できちんと音や意味合いが残っていたのに、今の住所地名では「ブニヨド」になっているのだろう。史料に採録された表記と行政が管理していた住所表記が違ったのだろうか(各務原の「かかみがはら」と「かがみはら」みたいなやつ)