銚子電鉄の錬金術ほんと好き。
ここで「荘園」について説明する。めちゃくちゃざっくり言うと日本の平安期の律令制崩壊から戦国末期までの中世日本で続いた農地とその地域の支配制度のことだ。要は主に農地を含む不動産とその支配権を指し、現代風に言えば「村単位の巨大な私有地」と「その地域の支配・被支配関係」的なものである。
お爺さんの「水害と洪水は違う。水がただ溢れるのと、いろんなモノが混ざった泥水が濁流になって流れてくのはぜんぜん違う。川のすぐそばの人は大変だっただろう。オレらはまだ良かったんだ」という言葉が今でも脳裏に焼き付いている。先日、九州球磨川流域に行った時、お爺さんの顔を思い出したよ…。
アサガオの花には多様な色があるが、本来黄の色素は作らない。現代科学でも遺伝子操作で無理やり再現して創るしかなかった。そんな代物を江戸時代の人は作り出し、栽培していたのだから、そこにかける試行錯誤、変異の研究熱は計り知れない。現代科学が一番進んでるなんて畏れ多くて言えないぜ…。
女性によれば今このブニヨドに住んでいるのは自分たちの家だけで、周りの人に訊かれたこともないし由来なんて考えたこともなかったという。だが家の表札には「ブニヨド」の地名が書いていると言い、貴重に感じた。田舎によくいる地元の歴史に詳しいお年寄りにも頼ってみたがやはりわからないとのこと。
軍港としての風景だけでは収まらないのが呉の素晴らしさだと思う。
家の呼鈴を押すと年配の女性が出てきた。「旅の人間ですが、つかのことをお訊きします。ブニヨドって何ですか?由来はありますか?」と単刀直入に問うがやはりというのか「わからない」と返された。家の奥から更にひと世代上のお年寄りも出てきたがそれでも「わからん。ブニヨドはブニヨドや」と言う。
太宰治、筋骨隆々の三島くんとは喧嘩できるのに、ただの酒乱野郎中原中也に絡まれてビビって何も言えないのなんなん?(なお、その後太宰&檀一雄vs中原&​草野心平で殴り合いになり、お互い何が原因で喧嘩してるのか分からなくなりつつ檀は丸太で中原を殴ろうとし店のガラスは割れるいい迷惑と化す)
四国山地真っ只中の、一棟貸し古民家に泊まる。大正期頃の商家建築。周りに人の住む家はなく、ご主人も別の集落に住んでいるので今日は一晩まるきり一人。最高かよ…。
「離農花」とも呼ばれるルピナスは、北海道の開拓廃村の象徴である。6月、北海道にもようやく初夏の気配が見えるころ、峠道の脇、あるいは山菜取りや登山者しかいないような道沿いの草地に、青やピンク、白の花が咲いている。ルピナスの群生は、かつてそこが開拓地として人が暮らしていた証である。
荘園は当初朝廷やその任命官が管理したが、中央の権力が弱まわると、荘園にかかる租税を朝廷へ納めなくていい権利や、朝廷が派遣した今でいう警察兼税務調査官的な役人を荘園内へ立ち入らせない権利を得る者が現れた。これを「不輸不入権(ふゆふにゅうのけん)」と言う。
奥三河に向かったのは春の田植えの頃。山奥を縫うように小さな集落がわずかな水田を抱えて沢沿いに並んでいる姿は、どこか中国山地の鳥取や島根県の中山間地を思わせる。峠を越えるごとに東海の山々を濡らす五月雨も上がっていき、ブニヨドに着く頃には曇り空の下、田植え作業をする人々の姿があった。
愛媛県今治市には海に沈む鳥居がある。しかもこれはきちんとした「参道」の鳥居。この神社は水の神様である龍神を祀っていて、潮が引いた間は人間がお参りし、潮が満ちた間は龍神を慕う鱶(フカ、サメ🦈のこと)がこの道を使ってお参りするのだという。
こういう薄暗い路地を進んだ先の空間で、古本や明治大正期の薬品瓶、人体解剖図を売りつつ、大して美味しくもないコーヒーを出しながら廃墟や各地で聞き取った話を交換する妖しい店の主人になりたい。
四国行きたくて目の焦点が合ってないので、四国行きたい嘆きの旅ポスターっぽいのを作って気を紛らわす。
周りの地形を改めて観察する。だが本当に沢沿いの田んぼと大きな岩があるのみでブニヨドの音になりそうな自然物はない。強いて言えば、川の「淀み」や川の流れの音から「トドロ」という地名が発生しやすいことにつながるか?と思う程度だった。こうして私のブニヨド訪問は無念に終わった…かに見えた。
関東地方のとある山間部に残る、ひと気のないお寺。そのお堂の奥へ向かう階段には、人の体や腕、脚の形をした金属製の人形(ヒトガタ)が並ぶ異様な光景がある。雨が降りしきる暗い森の中では恐ろしさすら覚えるが、これは参拝者が体の健康や快癒を願って奉納したものだ。 208/365 #斜陽暦
即売会で、売り子氏を道民本体だと思った人が「徳島県の山の中の○○ってとこ出身なんですけど来られたことありますか?」と話しかけて、???ってなってる売り子氏の後ろから「…たぶんご実家から200mくらい上に行ったカーブの所にボロい廃バスありますよね?」と言って本体がバレたことがある。
自分の非日常は、誰かの日常なんだよなあ…
歴博で調べてみると、ブニヨドがある足助付近は鎌倉時代末に足助庄として成立し、八条院や昭慶門院、皇室の土地であった。その影響だろうか、この地にいた足助氏は南朝方に付き、室町期に没落した。その後は足助鈴木氏が足助庄を支配し、江戸時代を迎えるころに荘園として解体されたという。
盗みの風習のいえば、長野県、山梨県、群馬県あたりにかけて、かつて「道祖神盗み」という風習があった。道祖神とは村の境に置く守り神のようなもので、多くは巨石に文字を刻んだものや人物型に彫刻したものをそう呼んでいる(写真のような双体道祖神が特に有名) これを別の村から盗むのである。
日本は災害大国と言われるが、こうしてみると、現代において地震や火事、台風、津波の対策は盛んに行われている一方で、水害対策は治水治山事業がメインで、個人や家庭レベルでの対策は昔に比較すると小さくなっている気がしなくもないなあたしかになあ。なんて思っていた。
にしても、なんで昭和期までは「ブニウド」できちんと音や意味合いが残っていたのに、今の住所地名では「ブニヨド」になっているのだろう。史料に採録された表記と行政が管理していた住所表記が違ったのだろうか(各務原の「かかみがはら」と「かがみはら」みたいなやつ)