エリザ(@elizabeth_munh)さんの人気ツイート(リツイート順)

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街全体が城壁としての機能を持っていた、かなり特殊な街ね。千年ほど栄えたみたい。文字のない時代だから詳細は不明だけどね。遺跡の規模から都市と言うに相応しく、人類最古の大都市とも言われてるわ。 こんな昔からでも、防衛と言うのは大きな課題だったことが伺えるわね。
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16世紀前半、スイスのチューリヒで大事件が起きた。 10数人の男達が小さく切り分けたソーセージ(一年間干されてたもの)をこれ見よがしに印刷工場で食べて見せたのだった。 この事態に、市参事会は震え上がり、チューリヒ中が真っ二つに分かれ、殴り合いの喧嘩や論争が巻き起こる。
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ていうかこの状況でオリンピックやって問題出なかったんだから間違いなく世界で一番コロナを上手く捌いた国でしょうね……
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1940年、ダンケルク撤退の大成功は萎えかけていたイギリスの戦意を再び燃え上がらせたものの、1人でも多く兵士を返すため、重火器や車両の類は全て放棄してきたイギリスは素手も同然だった。 その上でドイツの本土侵攻の可能性が高まる。イギリスは悲愴な本土決戦の覚悟を固めた。
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猛将とはリスクとリターンを天秤にかけてリターンを取る攻撃型の武将であり、知将とはリスクを取って博打を避ける守備型の武将。 ウェリントン公爵は圧倒的に後者で、リスクを避けた堅実な用兵を得意とする。 しかし彼の場合、ただ堅守を固めるだけでは済まない。
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英仏海峡の狭間、フランス寄りに位置するチャンネル諸島は中世来の自治権を有し、現代でも国王の私有地、即ち王室属領となっている。イギリス領ではなく国王の領地な訳ね。なのでイギリス法は適応されない。そんなちょっと変わった島。
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1789年、フランスでバスティーユ要塞襲撃が起こり、フランス革命が始まる。 その時、我らがイギリスはライバル国で起こった革命騒ぎを一様に祝していた。 「フランスも遂に絶対王政の非合理さに目覚めたぞ!」 何せイギリスは革命に関しては先達で、清教徒革命・名誉革命で経験済み。
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まず壁を共有するのは建物の強度を増すためと、建築資材の節約。家々が壁を共有しあって街全体で一つの建物になる事で、少ない資材で頑丈な街を作れる。 そして地面の高さに出入り口がないのは侵入者対策。もし敵や、猛獣が来ても、梯子を外せば家の壁は城壁に早変わり。
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17世紀、インドと東南アジアにそれぞれ進出したイギリスとオランダはマラリアに苦しめられた。夏季に死亡率はピークに達し、毎年駐在員の1/3が死亡する。 その対策として作られたのが、ジンだった。
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おはよう。今朝のTIPS。 ガチガチの階級社会であるイギリスでは合理性より体面を重んじる事がよくある。 それは合理性を重視する軍隊でも同じで、兵卒や下士官はともかく、20世紀に至っても士官、特に高級将校は紳士たる事が求められ、貴族的な生活を過ごすよう求められた。
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中々美しい意匠をしたシルバーのメダルだけど、第一次世界大戦期においてこのメダルは多くの男性が安全なはずの銃後の郷里で身を守るのに必要な盾だった。これ無しに外を出歩けば、耐え難い恥辱を与えられた このメダルは、国家に貢献した事を示すものであり、即ち、後ろめたい事が無いことの証だった
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1948年12月、アメリカ空軍はとある発表をした 「早期警戒レーダーが8頭のトナカイが曳く正体不明のソリを確認」 この発表はマスコミに取り上げられたものの、翌年以降空軍がサンタさんを捉える事はなかった。 しかし同じアメリカ軍でも24時間空を見張る人達は幾度もサンタさんを捉える事に成功する
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18世紀の終わりから19世紀の初めに掛けて、ロンドンは交通渋滞に悩んでいた。 世界最大の海上貿易国となったイギリスだけど、埠頭に集められた貨物は虚しく時を過ごし、一向に届けられない。全ての貨物は12世紀以来テムズ川の北と南を繋ぐ唯一の大動脈であるロンドン橋で未来永劫渋滞した。
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自分が14歳くらいの時にTwitterあったら激イタだったと思う人いいねして()
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ヴラド・ツェペシュは15世紀の人で、現在のルーマニア南部ワラキア公国の君主。ツェペシュとは串刺しを意味するあだ名で、またの名をドラクリヤ。 通称を、ドラキュラ公。 この剣呑な異名は彼の父ヴラド2世がドラゴン騎士団に在籍した事からドラコ(竜公)と呼ばれた事に由来する。謂わば竜子公ね。
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14世紀から19世紀半ばにかけて地球は小氷河期にあり、現代とは大幅に気候は異なった。 ロンドンを流れるテムズ川は流れがゆっくりな上、無数の橋脚によって支えられるオールドロンドン橋によって流れが阻害されており、一度冷え込むと忽ち凍結した。氷の厚みは30センチになった事もある。
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1792年、革命のパリ。 薄汚い1人の浮浪児が年齢に似つかわしくない、ギラギラと野心に燃える目で宮殿を睨みつけていた。 「見てろよ。いつかあそこに行ってやる」 少年の名はアントナン・カレーム。 後に王のシェフ、シェフの王と称される事になる偉大な料理人はこの日、父親に捨てられた。
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ダンケルク撤退。いわゆるダイナモ作戦はイギリスの士気を高め、負けて撤退したにも関わらず『ダンケルク魂』はイギリスの不撓不屈を示す合言葉になった。 一方で余り話題にならない撤退作戦もある。それがダイナモ作戦の後で行われたエアリアル作戦だった。
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ヴィクトリア時代末期、イギリスは最盛期を謳歌していた。七つの海を支配し、世界中に海外領土を抱えるイギリスは日の沈む事のない帝国と呼ばれ、名実ともに世界一の大国として君臨する。 1901年、その尖兵たる無敵イギリス陸軍は、南アフリカで民兵相手に壊滅状態に陥っていた。
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木こりの事をランバージャックと言うけど、その女性系がランバージル。 かつてその名で知られた『女性部隊』があった。
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異世界転生した! どうしよう? 危ない! あなたは何も悪い事をしていなくても着てるものが理由で酷い目に遭わされるかもしれない。何故なら、中世から近代にかけて、大体の国では奢侈禁止令というものがある。自由なファッションはできない。
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デーモンコアは有名だけど、ゴイアニア事故も有名だよね。 廃病院に放置されてた放射線治療装置が盗難に遭って、何も知らない人達が格納容器を解体して青白く光って綺麗だなーって見せ物にしてたら、何百人も被曝したやつ。 わたしは確実に被曝する側だわ。物騒な物を放置するんじゃない。
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西部開拓時代の西部アメリカが無法者の蔓延る荒野だったのは有名な話だけど、カナダにもそんな時代があった。 19世紀後半になってもカナダは広大な土地に対して警察力が追いついておらず、都市を離れれば忽ち無法地帯となる。それが最悪の形で表現されたのが1873年だった。
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1866年、二隻の船が血眼でロンドン目指して航海していた。船員は水夫一人に至るまで必死で、何としても引き離してやろう。何としても追い抜いてやろうとデッドヒートを繰り広げる。 「船乗りの意地にかけても、絶対に負けん! 世界最速は俺のものだ!」 話のきっかけは200年前に遡る。
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ww1でイギリスは甚大な人的コストを支払った。英国本土だけで111万5000人。更に植民地から88万7000人 今でもヨーロッパを旅するとどんな田舎でも戦没者の名が刻まれた慰霊碑を頻繁に目にする。5人いた息子が全滅した家もあった しかし奇跡的に全員が帰還した村もある。それは『感謝の村』と呼ばれた