176
「誰も対戦したがらない馬に何の意味がある。馬ごと私も嫌われるばかりではないか……」
対戦相手すら見当たらぬ売りに出された馬の競売に喜び勇んでオケイリーが手を挙げた。
「こちとら嫌われ者だ。仲良くしようぜエクリプス!」
こうして魔王は成り上がりのものとなる。
177
エクリプスは無敵かつ、隔絶した馬だった。戦えば戦うほど誰もエクリプスに勝てないことが明らかになる。
やがて誰もがエクリプスとの対戦を避けた。エクリプスが出るとなればみんなして出走を拒否するので、エクリプスはやがて厄介者となる。馬主も困り果てた。
178
エクリプスは他の馬を地平線、300m彼方に追いやって堂々のゴールを遂げる。
「一着エクリプス、他は見当たらず……。
繰り返します。一着エクリプス、他は見当たらず(Eclipse first and the rest nowhere)」
オケイリーは舞台役者のように観衆につぶやく。
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始まるやいな、ギンと睨む目でエクリプスが走り出す。オケイリーは叫んだ。
「行けぇ! エクリプス! ボロ儲けだ!」
騎手は半泣きだった。コースは勝手にエクリプスが進む。彼に出来るのは、とにかく振り落とされない事だけ。
「何だこれは!? これは本当に馬なのか!?」
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しかもこの日のレースは6400メートル走で、二戦目だった。
「いかな怪物馬とて、大差で勝てるものかよ」
と、観衆は思っていたけど、騎手は別の意味で恐怖していた。
「初めての大舞台で一走経験して、完全に興奮している……。まずい、完全にスイッチが入った。神よ私を守りたまえ……」
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流石のエクリプスもそこまでは離せまい、と大勢が賭けに乗った。
「馬鹿かアイツ、初走ならともかく、これはヒートレースで、しかも4マイル走だぞ?」
当時の競馬のルールは今と違う。短い休憩で何度も走り、連続して一位になった馬が優勝するルール。
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「一着はエクリプス。それは俺も異存ない。
なら、諸君。一つ二着以下を賭けようじゃないか。俺は二着以下なしに賭ける。ルールでは220m以上1位から離された馬は失格で順位なしだ。
俺はエクリプスの圧勝に賭ける。負けたら、賭け金の8倍を返そう。どうだ?」
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会場全体がエクリプスを別格と認識したので賭場は冷めた。
「次のレースも一着エクリプスは確定だ。いわゆる銀行レースだな……」
みんながエクリプスに賭けたのでエクリプスのレートはとても低くなる。エクリプス以外に賭けるのは余程のバカ。
そんな中、オケリーは言う
「詰まらん賭け方だな?」
184
「今のは……競馬だったのですか……?
物凄い形相の馬が竜巻のように通り過ぎてから、だいぶん過ぎて普通の馬が私の傍を通り過ぎて行って……」
と、目撃者は述懐する。
デビュー戦の第一戦もそんな感じで、観衆も一撃でエクリプスの隔絶した実力を叩き込まれた。
「この馬は、他と違う」
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調教師の他に乗りこなせる騎手もない程で、デビュー戦もそのまま引き続き調教師がやる事になった。
エクリプスはデビュー戦前に未勝利の馬とテストレースを済ませていた。
結果は虐殺とでも表現すべきもので、エクリプスは興奮し、デビューずみの相手を地平線の彼方へと突き放す。
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「この馬からはカネの匂いがする。去勢なんぞしたら台無しだ。調教師なら斡旋してやる。カネがないなら貸してやる。
いいか、絶対に去勢するな」
こうしてイングランドいちの荒馬調教師がエクリプスに派遣された。しかしその調教師を以てしてもエクリプスは御し難い荒馬だった。
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「競馬はよく分からんが、どうも気になる。行ってみるか」
行ってみると、正に噂の如し、極端に気性が荒いエクリプスは他の馬も騎手も馬主も寄せ付けず牧場の主人として君臨し、馬主は泣きべそかいていた。
「騸馬(去勢)するか……」
それを聞いたオケイリーは猛烈な剣幕で抗議した。
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繁盛するシャーロットの娼館にはありとあらゆる階層の人たちが溢れ、寝物語に情報も集まる。シャーロットとそれを共用するオケイリーは気になる話を耳にした。
「デビュー前だが、エクリプスと言う馬が凄いらしい。ただ、とんでもない気性難で、オーナーは持て余しているとか」
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シャーロットはロンドンの娼婦達をかき集めて非合法な娼館を組織し、オケイリーはコーヒーハウスに陣取って好き物の旦那衆を斡旋する女衒となりつつ、彼自身のビジネスである詐欺もやる。
2人は骨の髄まで悪党だった。そして、少しでも儲けられそうな事については誰より鼻が効くようになる。
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悪人同士、互いの才覚に惹かれ合ったオケリーとシャーロットはビジネスパートナー兼愛人関係となる。
2人はツキも良かった。国王ジョージ2世が崩御し、比較的軽微な罪を犯した犯罪者に恩赦が降りる。
釈放されると、2人は忽ち共同でビジネスを始めた。
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当時、借金は犯罪だった。重債務者となったオケイリーは債務者監獄に収監される。
この監獄でオケイリーは二重の意味でのパートナーと知り合った。売春婦のシャーロット・ヘイズで、彼女はそこらの娼婦より余程頭が切れており、売春ビジネスを組織化できる、謂わば娼館の経営者だった。
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「家族も捨ててロンドンまで来たんだ! 籠担ぎで終わってたまるかよ!」
若いオケイリーは未亡人となった老婦人を誘惑し言葉巧みに取り入って再婚者になった。オケイリーは美男で話が上手かった
やがて老婦人が亡くなると、遺産を彼は相続する。しかし忽ちオケイリーは酒とギャンブルで浪費し尽くす
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オケイリーは1725年、アイルランドの貧農に生まれた。当時イングランドの二等植民地だったアイルランド人は真っ当にやれば貧民として生涯を終えるしかない。
オケイリーは一発逆転を賭けてロンドンに渡り富裕な家の使用人になる。与えられた役割は籠担ぎだった。 twitter.com/elizabeth_munh…
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16年の余生のうちにポテイトーズは172頭の馬の父となった。
サラブレッドの始祖と称される最強馬、エクリプスの子の中でも最優と目されたポテイトーズはやがてポテイトーズ系と呼ばれるサラブレッドの始祖となる。
当然、彼らはよく走った。ポテイトーズ系はやがて競馬界を席巻する。
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3歳から10歳までの7年間、ポテイトーズは重賞を含む40戦に出走し、28勝、ないしは34勝を挙げる堂々たる名馬ぶりを見せ付けた。
「エクリプス最優の子だ。最も血が濃いぞ!」
引退後、ポテイトーズは父エクリプスと同じように種付け依頼が殺到する。
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珍妙な名前を聞いて噴き出さない人はいないポテイトーズだけど、走らせると忽ち周囲を戦慄させる。
「あんな名前で父はエクリプスかよ!? 詐欺だろ!」
ポテイトーズは同世代最強の一角で、数多いるエクリプスの子の中でも最優の馬の一頭だった。
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寧ろそのセンスが素晴らしいとアビンドン伯爵は大爆笑した。
「気に入った! お前の名前は今日からPOTOOOOOOOO! すなわち、ポテイトーズ(POT-8-Os)だ!」
こうして世界初の珍名馬ポテイトーズが誕生する。