エリザ(@elizabeth_munh)さんの人気ツイート(新しい順)

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パルマンティエは職場である医院の畑で個人的にじゃがいもを栽培し、患者に栄養をつける安価な薬代わりとして処方していたものの、反対運動が巻き起こり、お陰様でパルマンティエは出世が妨げられた。しかしそれで折れるパルマンティエではない 「じゃがいもは名医より大勢の人を救う食べ物なんだ!」
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パルマンティエ同様、科学的見地からじゃがいもを擁護する人たちがたちまち賛同する。中にはアメリカ建国の父の1人であるベンジャミン・フランクリンもいた。 しかしコロンブス交換以来250年間、毒とみなされていた偏見はその程度では覆らない。
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帰国して後、パルマンティエはじゃがいもの安全性と効能を声高に訴えた。 「我が国において無視されているこの野菜は、全く安全であるのみならず、美味であり、また栄養豊富で、そして痩せた土地でも豊富に実る万能の野菜です! どうかじゃがいもを可食物として認可されたし!」
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じゃがいもを拒否する仲間は衰弱する一方。しかしパルマンティエは満腹で健康。パルマンティエは確信した。 「じゃがいもは下賤な野菜じゃない。まして、食べたらハンセン病になるなんて、嘘っぱちだ」 こうしてパルマンティエは生涯をじゃがいもに捧げる決意をする。
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「お前、じゃがいもを食べるなんて……。ハンセン病に罹るぞ」 捕虜仲間からそう言われるパルマンティエだけど、まるで意に介さない。プロイセンは貧しい国で、国民に満足なパンを支給できないからじゃがいもを仕方なく奨励してる。まして捕虜ならパンなど出ない。
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18世紀のフランスは天下の美食大国であり、じゃがいもなんて鼻から無視する。パルマンティエも家畜の餌か、貧民の窮余の食べ物みたいなのを食べさせられる捕虜の惨めさと共にじゃがいもを嫌々食べる。ところが表情が変わった。 「……美味いじゃないか」 パルマンティエはじゃがいもを完食。
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とは言え、やがてヨーロッパ人もじゃがいものポテンシャルに気づく。痩せた土地でもよく育つ。栄養価が豊富で、しかもありとあらゆる料理に合わせやすい。 「貧民のパン」 やがてじゃがいもは密かにそう呼ばれ出した。一方で偏見も根強い。マトモな人の食べるものではないともされる。
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じゃがいもはアメリカ大陸からいわゆるコロンブス交換でもたらされたものの一つだったけど、当初、食用とは見做されなかった。 一つには根菜に対するヨーロッパ人の偏見。地に埋まってる物は邪悪に違いない。 もう一つは、よく知られてるようにじゃがいもの芽が猛毒を実際持っていたから。
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18世紀のこと。フランスはプロイセンと七年戦争を戦っていた。軍医として従軍したアントワーヌ・パルマンティエは戦争の中、プロイセンの捕虜となり、捕虜収容所に収監される。ここで彼は運命的な出会いをした。 じゃがいも。
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英国王は数多けれど、ただ1人、死後もなおその存在を熱狂を以て思い起こさせ、誕生日を国民の祝日として盛大に祝われた国王がいる。 誰あろう、ヴィクトリア女王だった。彼女の誕生日である5月24日はエンパイア・デーと呼ばれる。
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本当に上手い演出だ。主人公に負けず劣らず敵の成長を描いている。 本当に傑出した漫画家だ。やはり人気雑誌の連載作家は他とは違う。
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マーチングバンドの花形で、巧みに旗を操作するパートをカラーガードと言うけど、このカラーとは色ではなく軍旗を意味する。 そんな軍旗を用いたマーチングで世界最高の格式を誇るのが、トゥルーピング・ザ・カラーズ。軍旗分列行進。
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1935年、北アフリカで2人の女性が一台のオートバイと、それに接続されたサイドカー。そして牽引するトレーラーと共に鷹のような目で南を見据えていた。 「もう後には引けない。行くよ」 「ええ、目指せケープタウン」 前代未聞の大冒険。女2人、バイクによるサハラ砂漠縦断への旅の始まりだった。
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ある日、ケント州の小都市パドックウッドで一人の巡査がのんびりと自転車を漕ぎながら警邏していた。 「今日も街は平和で長閑だな」 そんな事を考えていると、彼の正面に自動車が現れ、瞬く間に接近し、その傍らを猛スピードで通り過ぎて行った。 「ス、スピード違反だ! 止まれ! 止まれ!」
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各家庭に安全な水が普及し、コンビニにでも行けばペットボトル入りの水が買える現代、再び水飲み場の必要性が議論される。 「家を持たない人は? ペットボトルはゴミになるのでは?」 水飲み場協会は今も残り、現代に適応した水飲み場の建設と維持管理に関わり続けている。
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しかしその頃にはもう水飲み場は市民達の伝統的な会合の場となっており、利潤などまるで考えず貧民の健康のために尽くしたガーニーら先人の高潔さに敬意を持つロンドン市民にとって、水飲み場を廃止するなどありえなかった。 こうして水飲み場はメモリアルへと変化する。
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初めての水飲み場はロンドン最大の教会の一つであるセント・セパルカ・ウィザウト・ニューゲート(ニューゲート城門外の聖墳墓)教会に作られた 周囲を驚かせたことに、この水飲み場は無料で提供される 「誰でも飲みにきてくれ! 安全な水だ!」 更にガーニーはロンドン各地に同様のものを作り出した
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「これでは渇いて死ねと言っているようなものではないか……」 こうした状況に心痛めた人物が銀行家で国会議員のサミュエル・ガーニーだった。 ガーニーは1859年、メトロポリタン水飲み場協会を結成し、安全な飲み水を確保する事を決意する。コレラは井戸水から広がった。公共の水飲み場が必要だ。
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大規模な下水処理システムが構築される一方、安全な飲み水の確保が求められた。それこそ水が信用出来ないために多くの人がビールを飲む。低賃金の労働者はそれも買えない。コーヒーも紅茶も気軽に飲むには高い。
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「中世人は水が汚染されているから代わりにビールを飲んでいた」 わたしも数年前までは信じてた神話だけど、これは事実ではない。正しくは19世紀中頃のロンドン市民の話で、例によって近代は中世よりはるかに汚く、テムズ川の水を飲めばほぼ確実に死んだ。 twitter.com/elizabeth_munh…
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1821年、ジョージ4世の戴冠式の祝宴での事。ウエストミンスターホールに中世式の甲冑に身を固めた騎士が見事な軍馬に跨り、陸軍中将エフィンガム伯爵と陸軍元帥ウェリントン公爵を左右に従えて現れた。 息を呑む観衆の前で騎士はすっと自らの籠手を外して地面に落とし、口を開く。
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デイヴィッド・ロイド=ジョージは19世紀後半から20世紀初頭のイギリスの政治家。 マンチェスター生まれの最も有名なウェールズ人と呼ばれる彼は、鵺的な性質を持つ混沌とした政治家で、一言で言い表すのが難しく、現代に於いても見る人によって評価が異なる。
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「新年明けましておめでとう!」 「えっ、いやまだ明けてないけど……」 なんて事になったら混乱するけど、18世紀半ばまでのイングランドでは新年が他所の国どころか連合王国内のスコットランドとすら異なり、何かと混乱の種となっていた。 1752年まで彼らにとって新年とは、3月25日を指した。
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1680年代以降、人口が増大するロンドンの治安は悪化の一途を辿った 犯罪者を取り締まるべき警察は存在せず、無給のボランティア頼みだったため、巡査や夜警はやる気がなく、犯罪者の追跡には賞金稼ぎじみた民間人、泥棒捕り(シーフテイカー)が当たる事となる そんな中でも大物と称されたのが2人いた twitter.com/elizabeth_munh…
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17世紀から18世紀、ロンドンは退廃の魔都と化し、都市は犯罪で渦巻いた。 急速に成長し、大都市として伸びゆくロンドンは無秩序に人々を受け入れており、貧しい人と富める人は隣り合って生活する。やっては来たものの仕事がなくてあぶれた人達は泥棒に身を持ち崩した。