エリザ(@elizabeth_munh)さんの人気ツイート(新しい順)

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グランド・フェンウィック大公国は北アルプスの自他共に認める小国で、8キロ×5キロの吹けば飛ぶような領土を持つ。 その歴史は百年戦争の頃に遡り、フランスに雇われていたイングランドの騎士フェンウィック卿がある日独立を宣言し、攻めてきたフランス軍を大弓で追い返した事に端を発する。
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17世紀までは貴族の娯楽と言えば狩猟だったけど、この頃から競馬が人気を集めてくる。 この頃の競馬は2頭によるマッチレースが主で、距離は4マイル(6400m)と言う超長距離、かつ2回、あるいは3回かつまで同じ日にレースを繰り返す過酷なもの。運や瞬発力に左右されない純粋な実力勝負だった。
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あなたが17世紀を生きる小売店の店主だったとして、如何にしてお客を呼び込む? 新聞広告を打つと言うのは一つの手だけど、もっと安上がりで、かつ効果的な手段があった。それが、トレードカード。
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長閑な風景に見えるけど、この煉瓦造りの小さな塔は中々しぶとい小さな要塞だった。 これはマーテロー塔。高さ12mで、三階建てであり、簡易の宿舎を内部に持ち、30人ほどの兵士が駐留できた。屋上には一門ないしは二門の重砲を持ち、360度どこにでも砲撃できる。
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1898年1月、今で言うポリティカルコレクトネスな騒動が起こった 「私達を『フリーク』と呼ぶな! 別の呼び方を要求する!」 『フリークショー』の出演者達はフリーク(異形)の呼び名を拒否し、新たな名前のための会議を招集する。先頭に立ったのは髭レディとして有名なアニー・ジョーンズだった。
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わたしをよく見てくれてる人達なら山ほど見た覚えがあるであろうこの絵。品のいい絵ではないけどわたしはこの絵が好きなので度々引用する。 イギリスを代表する風刺画家、ウィリアム・ホガースの『カレーの城門。あるいは古のイングランドのローストビーフ』。今日はこの絵について解説しましょう。
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今日は絵画をご紹介。イギリスを代表する画家の1人、ジョン・エヴァレット・ミレーの『ブラック・ブラウンズウィッカー(黒きブラウンシュヴァイク騎兵隊員)』。若い男女が切なげに抱き合う姿は別れを想像させる。背景のナポレオンの絵画に注目。
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ヨーロッパにおける公衆トイレの歴史は古代ローマに遡る。 と言って、この頃はこんな感じでまぁ開放的。心理的抵抗はあるだろうけど、それでも公衆トイレを使う事は社会的活動とみなされていた。その辺でやるよりは少しくらい恥ずかしくてもトイレを使え、と言うことね。文字通り後腐れがない。
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おはよう。少し長い休暇だったけど、戻りました。大禍なく皆は過ごせたかしら? 休暇中も一応書いてたからよければ読んでいって。さて、お仕事に行ってきますね。 @elizabeth_munh #note note.com/elizabeth_munh…
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1936年の事。ドイツでは既にナチス党が政権の座に就いて3年。日に日に英独関係はきな臭くなり、戦争が近づくのをイギリス人達は肌で感じていた。 海から攻めてくる分にはいい。ロイヤルネイビーは天下無敵だ。ドイツ海軍など相手にならない。 問題は空だ。
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ロイヤルメールはイギリスの郵便社。 現在は日本同様民営化されてるけど、かつては政府公社であり、それ以前は政府機関で、郵政省だった。 その歴史は古く1516年、時の英国王ヘンリー8世が設置したのが始まりで、この頃はロイヤルメールの名の通り、国王の文書を送達する事が役目だった。
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1940年。イギリスの空をドイツ戦闘機が行く。メッサーシュミットbf109。ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)の象徴で、幾多の武勲で諸国を震え上がらせた名機だった。 それに挑み掛かるはスーパーマリン・スピットファイア。王立空軍(RAF)の切り札で、後に救国機と呼ばれる名機。
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1792年、革命のパリ。 薄汚い1人の浮浪児が年齢に似つかわしくない、ギラギラと野心に燃える目で宮殿を睨みつけていた。 「見てろよ。いつかあそこに行ってやる」 少年の名はアントナン・カレーム。 後に王のシェフ、シェフの王と称される事になる偉大な料理人はこの日、父親に捨てられた。
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1914年ロンドン、怒れる女達のデモ隊が、バッキンガム宮殿目掛けてまるで軍隊のような隊列を保ちつつ前進していた。 「Votes for women(女性に参政権を)!」 最前列の女性が声を上げると、周囲も一斉に叫んだ。 「女性に参政権を!」 彼女の名はエメリン・パンクハースト。
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執事と言うとお屋敷の使用人の長のようなイメージがあるけど、本来その役割を担うのは家令。執事は男性使用人の長であり、元は客間を取り仕切る存在に過ぎなかった。 ただ、19世紀頃には大きな家からも家令は姿を消してしまう。 twitter.com/elizabeth_munh…
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そう言えばイギリスの商人文化には奇妙な風習があって、フットマンの名前はジェームズと決まっており、雇われたフットマンはジェームズに改名したそう。 フットマンを2人雇った場合、2人めはチャールズに改名させられた。
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連ツイするほど落とし込めてないけど、19世紀のイギリスの貴族達はどうも然程知識や教養に秀でてる訳ではなく、酷いのになると外国の教養どころかシェイクスピアも観た事がないのもいたみたいね。
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現代だと容姿のいい男性はホストやアイドルに適性があるけど、18〜19世紀のイギリスの庶民ならフットマン(従僕)から成り上がれる可能性があった。 女性使用人ならメイドさんを思い浮かべるけど、男性使用人ならフットマンね。
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ジャン・バティスト・ド・ラ・カンティニは17世紀のフランス人。 中流の身分に生まれた彼は生まれつき頭がよく、また要領が良かった。故郷ポワティエに目もくれず、カンティニはパリを目指して学業に励み、弁護士になった。
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スコットランドの伝統と言えばタータンチェック模様のキルト(スカートと言う表現は誤り。過去にはわたしもそう表現した)だけど、比較的その伝統は新しい。 そもそも全スコットランド的なものでもなく、スコットランドの北部で山がちなハイランド地方の各氏族(クラン)がこれを用いた。
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やがてオムニバスは省略され、単にバスと称される事になる。 誰にでも開かれた公共の足は、17世紀の時点では早すぎた発明だったけど、都市が拡大する19世紀から20世紀、欠かせぬものとして復活を遂げ、そして今では日常にありふれたものとして、わたし達の生活を支えている。
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5つの路線を定期的に走るこの馬車は『オムニバス(誰にでも)』と呼ばれ、盛況を呈するものの、運賃が高額であり、馬車即ちステータスを意味した時代であり、貴族達から規制を受けたため、やがて誰にでも開かれたとは言い難い物となり、消滅する。 その後、150年以上オムニバスは復活しなかった。
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早すぎた発明は時を経て再発明される事がある。1662年、フランスの哲学者パスカルはパリ市民の日常の足として、乗合馬車を提案した。 「料金さえ払えば誰でも使う事のできる公共のキャリッジだ。定刻がくれば乗客ゼロでも出発し、毎日決まったコースを走る」
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17世紀、イギリスの道路はボロかった。 道路の整備と維持運営には不断の努力と巨額のお金が要る。ただでさえ辺境の二流国なのに、内戦を終えたばかりのイギリスにそれをなんとかするだけのお金がある訳がなかった。 こうして導入されたのが、ターンパイク。
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1924年、パリオリンピック。アメリカ人女子水泳選手、ガートルード・イーダリーは金メダルと二つの銅メダルに輝いた。しかし彼女は内心、悔しさに歯噛みする。 「金はリレー。個人種目では銅メダルなんて……!」 女子水泳のパイオニアは、金メダルにも勝る次なる目標を捉える。