飯間浩明(@IIMA_Hiroaki)さんの人気ツイート(古い順)

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「一段落」の正誤の議論について言うと、「段落」という漢語の前には音読みの「いち」が来るべきだという主張があります。でも、「ひと安心」「ひと苦労」など、漢語の前に「ひと」が来る例は多いので、「ひと段落」は異例とまでは言えないことになります。
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「安心」「苦労」は「安心する」「苦労する」と動詞になるので「ひと」をつけてもいいが、「段落」は「段落する」と言えないので「ひと」がつかない、という主張もあります。整然とした説明のように見えますが、動詞にならない場合に「ひと」をつけてはいけない理由がよく分かりません。
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「段落」のように下に「する」がつかない漢語で、上に「ひと」がつく語はほかにないかというと、「ひと騒動」もあり、「ひと課題ずつ取り組む」などもあります。要するに、正誤の説それぞれに論拠があり、自分自身がどの論拠に従いたいかは自由です。長い間に「ひと段落」が増えているのは事実です。
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『文藝春秋』2月号で山手線新駅名について書きました。最初はぬるいこと書いていますが、途中から、この新駅名の決め方が誤りであることを論じています。つまりは、ことばは誰もが自由に創作してよいが、嫌だと言う人に押しつけるべきではない、公共物の名称でそれをやってはいけないという話です。
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「高輪ゲートウェイ」問題について、メディアは静かになっちゃいましたが、私は今後の動きを注視するつもりです。世の中の人々は案外イケズで、「新名称にはべつに反対しないが、単に使わずにすます」という道を選ぶ人も多いはず。私はどうかというと、「JR高輪駅で待ち合わせ」とか言いそうです。
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「高輪ゲートウェイ」と駅名表示板にあるのに、多くの人々が「高輪」と言うようになるかどうかは、予想しがたい問題です。「E電」(国電の新名称)は、駅構内にそういう表示板まで出ていましたが、結局廃れました。ただ、駅名のように公共性が高い名称が、結局浸透しなかった例があるかは知りません。
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新橋の東の街を「汐留シオサイト」と言いますが、多くの人は単に「汐留」と呼んでいるはずです。「高輪ゲートウェイ」駅も、実は同名の街を造る計画があって決めたのだろうとも言われます。もしそうなら、その新しい街も単に「高輪」と呼ばれるでしょう。駅名も「高輪」と呼ばれる可能性はあります。
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世の中に、「高輪ゲートウェイ」よりも切実な問題は山ほどあります。でも、私の立場からは、新駅名称問題はわりと重要です。「公共物に、多くの人の望まない名称をつけるべきではない」「『駅名が浸透していくよう、引き続き努力』というJRの姿勢は筋違い」と、改めて指摘しておきます。
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テレビ番組で「※諸説あります」と言う件、たとえば、「邪馬台国は畿内にありました」と解説があって、「※諸説あります」とテロップが出たらどうか、ってことです。他に有力説があるなら紹介すべきだし、他の説はガセやこじつけと判断したなら、監修者が責任を負う形で、テロップはやめるべきです。
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2017年12月、さるバラエティー番組が「サウスポー」の語源を取り上げました。通説と矛盾する資料を示し、通説に疑問を呈したものの、結論には至らず「由来は分かりません」と説明。私は「強引さがなく、事実を積み重ねる取材で素晴らしい。バラエティーもついに新しい段階に入ったな」と感動しました。
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「サウスポーの語源は分かりません」という放送は、「諸説」を丁寧に吟味し、不明は不明として示したところがよかった。勉強にもなりました。「分からないなら放送するな」という声も多く届いたでしょう。だとしても、ひるまずに、その番組がその後も同じ姿勢を貫いてくれていればいいな、と思います。
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私の経験からは、テレビ番組がどう考えても無理な(しかしウケそうな)説明を用意して、解説者にそのとおりしゃべらせようとすることがあります。筋書きが最初からできているわけ。「※諸説あります」のテロップは、そんな制作者の隠れ蓑としても使われるので、その意味でもやめたほうがいいです。
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新刊『ことばハンター』がポプラ社から刊行されました。「天扶良」という謎のことばを話のきっかけに、子どもの頃から今に至る、私とことばの関わりについて書きました。国語辞典作りの楽しみ、苦しみも、もちろんたっぷり語っています。読んだ後は、ことばにいっそう親近感を持ってもらえるはずです。
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「読書」というと、まじめな本を読むイメージがあるけれど、どんな本でも読めばいいのです。漫画だって小説だって、ノンフィクションだって学術書だって、「読む」という楽しみの本質は同じで、区別する必要なんかない。そんなことを思いながら、『ことばハンター』を書きました。
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お恥ずかしいご報告をひとつ。○○年の始まりを「○○年が明けた」と表現することについて、私は2004年に「違和感がある」と述べました。その後ずいぶん経った2017年、今度は「問題ない」と逆の見解に達しました。ところが、昔書いた文章を忘れ、両方の発言の矛盾を放置してしまいました。(続く)
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(前の続き)2017年の発言の直後、両者の矛盾について指摘があったのですが、私がそれに気づいたのは2019年の今になってからです。改めて「○○年が明けた」は差し支えないと、元の文章に追記しておきました。実に15年経ってからの訂正ということになります。asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k040… (続く)
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(前の続き)それにしても、自分の昔の文章で「この言い方は違和感がある」と、ことば批判をしているのは意外で、変な感じがします。今はそんなにことば批判はしなくなりました。辞書の仕事を続ければ続けるほど、「どのことばにもそれなりの理由がある」という考えが強くなってきたからでしょう。
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学校の国語で「古典は本当に必要なのか」という議論がネット上にあることを知りました。大学受験で古典が最も貴重な得点源だった高校生の私にとっては、かりに古典の配点が減らされるようなことがあれば、悪夢でしょう。志望校に通らなかったかもしれない。そうなると非常に困るのは事実です。
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高校の頃の私のみならず、古い時代の文章が異常に好きで、それを読解することに喜びを感じる生徒は一定数いるはずです。そういう生徒は、文学のみならず、歴史学、文献学など、広く歴史を扱う研究や業務に携わる可能性があります。生徒たちの進路を狭くしてほしくないという希望は強く持ちます。
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もっとも、議論の一部を見るかぎり、「国語で古典を教えるな」ではなく、「古典は選択科目だけにせよ」ということのようです。だとすれば、現在すでに選択科目である「古典B」が、文学部などの入試では重視されているので、たとえ制度が変わっても、古典好き受験生に不利益はないという気はします。
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「国語の古典は本当に必要なのか」という議論では、文語文=古典文学と考えると、話が混沌とします。文語文の中には、文学も論説も公文書もあります。現代のわれわれに必要なのは、「源氏物語」を読み解く能力ばかりでなく、広く過去の文献を読み解く能力です。文学と文学以外を分けて考えるべきです。
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「古典は必要だ」というと、どうしても古典文学の魅力、といった話になります。私は古典文学が好きで、大学で「万葉集」、大学院で「源氏物語」を扱いましたが、べつに皆が万葉・源氏を読めなくてもいいと考えます。一方、明治やそれ以前の文語文がそれなりに読める能力は、たぶん多くの人に必要です。
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戦前までの文章は文語文で書かれたものが多く、ちょっと古いことを調べようとすると、すぐに文語文の知識が必要になります。自然科学でも社会科学でも、昔の日本はどうだったかを調べる機会は多いはずです。そのための基礎知識を形成するには、文語文の授業は選択ではなく必須とするのが妥当です。
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以上、かりに古典文学が必須科目でなくなっても、広い意味での文語文は必須科目に組み込んだほうがいいという主張です。もっとも、古典文学も、実学としてはともかく、教養としては知っていたほうがいい。「枕草子」などの名文を知らずに終わるのはもったいない。要するに、私は結局、現状維持派です。
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お教えください。 「『眺望』は『ながめ』よりもかたい表現だ」 という文の「かたい」を漢字で書く場合、あなたはどの字を使いますか。感じたままお答えください。 1. 固い 2. 堅い 3. 硬い