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『大辞林』第4版の語句訂正、「スーダン」の項目で〈黒人〉は〈アフリカ系〉になっています。編集姿勢の一端が推察されます。「恋愛」が〈男女が恋い慕うこと〉→〈互いに恋い慕うこと〉となったのはすでに指摘されているとおり。この手入れは『三省堂国語辞典』などもすでに行っています。
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「『十回』の『十』は『ジュッ』でなく『ジッ』と読む、本来の字音『ジフ』の変化だからだ」という主張があります。歴史的にはそうですが、現在の常用漢字表の「十」には「ジッ」の備考欄に「『ジュッ』とも」と記されています。現在一般的な「ジュッ」がお墨付きを得た格好。テストでは両方マルです。
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一般名詞や固有名詞の「十」は「ジッ」か「ジュッ」か。今やレジェンドの女性アナが1989年1月5日放送のNHK教育「ETV8」で「十返舎一九」を「じゅっぺんしゃ…」と読んだ時点で、私の中ではどっちでもよくなりました。なお、NHKの最新版のアクセント辞典では一般に「ジッ」が主、「ジュッ」は許容です。
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そうは言っても、べつに『広辞苑』は近現代語が手薄とか、『大辞林』は古典語が苦手とかいうのではありません。どちらも全般に詳しいのですが、『広辞苑』は古典語の変な単語まで異様に詳しく、『大辞林』は近現代の硬質な語を異常に好むようだ、ということです。あくまで私の印象批評です。
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両辞書のもうひとつの違い。『広辞苑』の説明は短く簡潔、『大辞林』の説明はやや長く丁寧、という特徴があります。どちらがいい、というのでなく、ユーザーの好みの問題です。字数が多いからといって、一概に情報量が多いということでもありません。このあたりはぜひ読み比べてみてください。
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同居婿の意味の「マスオさん」を『三省堂国語辞典』は載せています。すごいでしょう――と言いたいところですが、実は『大辞林』第3版(2006)のほうが早く載せていることは指摘しておきます。『三国』が載せたのは第6版(2008)から。後には『三省堂現代新国語辞典』にも載っています。
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ことばの番組で「○割が誤用(文化庁調べ)」と説明することがあります。でも、文化庁(国語に関する世論調査)では「誤用」という表現は使いません。記者発表でも「本来の意味から派生した使われ方も誤りとまでは言えない」と強調しているとのこと。放送では注意すべきです。mainichi-kotoba.jp/blog-20190907
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ことばの番組でありがたいのは、独自取材で「今の人々が、どんなことば遣いをしているか」を報道してくれることです。でも実際は、「写メったりしていました」を若者ことばとして紹介したりもする。「写メる」はむしろ若者が分からないことばと指摘されており、取材してないのでは、と疑問を持ちます。
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ことばのクイズ番組で「男は(度胸)、女は(愛嬌)」の( )内を答えさせるのがありました。これ、今の時代にことさら出題する意味ありますかね。「男は仕事、女は家事」みたいな性役割の固定化を強調する効果しかないことば。ことわざ辞典の片隅に、時代錯誤との注釈をつけて載せれば十分でしょう。
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「お忙しい」「ご多忙」は「亡」を含むので忌みことばだという主張を目にしました。不勉強でそんな話は聞いたことがない。最近のトンデモマナーの類ではないかと疑っています。「お忙しい」がだめなら「望み」「忘れました」もだめだし、「荒井」さんは出禁になっちゃう。言い出した人は誰でしょうか。
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「忙しいという字は心を亡くす(から余裕を持て)」という教えはありますが、これは「信じる者は儲かる」などと同様の民間字源説で、忌みことばとは微妙に違います。ところが、それがトンデモルール化され、テレビで「喪主挨拶で、お忙しい・ご多忙はNG」などと放送されるに至ったということでしょう。
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「男は度胸、女は愛嬌」をことさら出題したクイズ番組に疑問を呈したところ、1000を超える「いいね」をいただいた一方、「問題ないのでは」との声も見受けられました。今の社会は、男は度胸が、女は愛嬌が求められる傾向があるのは事実です。ただ、それが個人の正当な評価を妨げている側面もあります。 twitter.com/IIMA_Hiroaki/s…
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「でも、男は度胸が、女は愛敬があったほうがいいのは当たり前でしょう」という感想があるかもしれません。もちろん「度胸のある男」「愛敬のある女」が高く評価されるのはいいことです。問題は、「愛嬌はあるのに度胸はない男」「度胸はあるのに愛嬌はない女」が不当に低く評価されることです。
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ここで「愛嬌」とは何かというと、見た目や仕草から感じられる可愛らしさ、または親しみやすさです。古くは「あいぎょう」で、光源氏の形容にも使われ、現在でも男女に使えることばです。むしろ、愛嬌は男女を問わずあるといい性質です。その性質が女にだけ要求されるというのは公平ではありません。
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「度胸」は見た目に現れにくいため、男が「度胸がない」と評価される局面は限定的です。一方、「愛嬌」は見た目に現れるため、女が「愛嬌がない」と評価されることはしばしばあります。その結果、今の社会では「度胸がない男」が被る不利益よりも「愛嬌がない女」が被る不利益のほうが大きくなります。
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国語辞典は「男は○○が当たり前、女は○○が当たり前」という見方を克服するために苦闘してきました。『三省堂国語辞典』初版(1960年)では、男は「人のうちで、力が強く、主として外で働く人」、女は「人のうちで、やさしくて、子供を生みそだてる人」とあります。性役割を固定的に捉えた説明です。
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現在の『三国』では、男は「人間のうち、子種を作るための器官を持って生まれた人(の性別)。男子。男性。〔法律にもとづいて、この性別に変えた人もふくむ〕」としています(長いので女は省略)。これで十分とは言えませんが、なるべく当てはまる範囲を広くしたいという姿勢で執筆しています。
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「男(女)はAであるのが当たり前だ」という表現は、そのAという性質を幸いにして持つ人には何ら不都合を生じません。でも、それとは別のBというすぐれた性質を持つ男(女)が、Aの性質を持っていないからという理由だけで不当に低く評価される言い方でもあります。このことに深く留意すべきです。
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話はそれますが、コーラを飲んだという話をしたら、「男の人ってコーラが好きですね」と言われたことがあります。なぜ男全体の話になるのか、僕が男だからコーラを飲んだわけじゃないよ、と思ったものです。以来、私は「男(女)とは」「○大生とは」「○○国の人とは」をコーラ論法と呼んでいます。
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ある調査によれば、女より男のほうがコーラを飲む本数が多い傾向があるのは事実です。ただ、コーラ嫌いの男もいれば、コーラ好きの女もいます。「男はコーラが好きだ」「男は度胸を持つべきだ」というコーラ論法は、それに当てはまらない人を無視したり、不当に評価したりすることにつながります。