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お若い方はご存じないかと思いますが、昔「ゲロゲロ」という流行語があったのですよ。驚いて不愉快に思う気持ちを表す感動詞・形容動詞です。私は、1988年12月5日に早大文学部の181大教室で、学生同士の会話を聞いたのが初めてでした。その後大流行しました。
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『三省堂現代新国語辞典』第6版は大評判で、ネットニュースなどでも取り上げられました。ところが、それらのニュースの内容が、評判の震源地である「四次元ことばブログ」の丸写しで、一歩も出ていないのは何たることか。この辞書の魅力は他にもたくさんあります。どうぞお求めの上、ご確認ください。
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辞書を作る上で、他の優れた辞書に対する嫉妬の感情は大事なものだと、私は考えています。嫉妬によって相手の足を引っ張る、なんてのは論外。逆に、自分のやる気を高める燃料にするのです。今年は、『広辞苑』第7版が出たときも、「どないしてこましたろか」と、私は嫉妬に狂っておりました。
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NHKのことばの守護神・塩田雄大さん(放送文研主任研究員)が、友近さんに憑依して、文研の仕事の流儀を爆笑のうちに紹介する動画です。この中の「カムチャツカ」は、打ち合わせで出た実話だそう。下のななみちゃんとのトーク、塩田さん本人が全部書いてる気がしてなりません。nhk.or.jp/kokyo-cp/
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私は「ことばの正誤についての意識は、昔は今よりずっと緩やかだった」と見ています。その私が、「戦前でも、公共の場では正字体の漢字を使っただろう」と考えたのは、まことにうかつな話でした。今回の一件で、「昔はことばのルールが緩やかだった」という実例を、新たに得ることになりました。
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戦前は、活字体で「靑」、筆写体で「青」と書くなど、両者に開きがありました。教科書は手書きに近づけていたようですが、その教科書字体すら、時期によって微妙な変更がありました。全世代が従う単一のルールがなかったと言えます。それが看板などの多種多様な字体を許す素地になったのでしょう。
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戦前の漢字字体については、我ながら認識不足でした。漢字の字形(トメハネなど)が厳しく採点されはじめたのは1960年前後と言われます。字体についても、戦後は字体表どおりかどうか、と厳しくなりました。一方、戦前は地下鉄の看板さえ不統一だったとすれば、戦前・戦後で意識が相当異なるわけです。
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戦中のドラマに「地下鉄」(鐵でなく)とあるのを批判したところ、「戦前も『鉄』の例はある」とご指摘を受けました。戦前の漢字の多様性は知っているつもりでしたが、「手書きや広告はともかく、公共の表示は正字だったろう」との思い込みがありました。公共の表示でも略字があったことを学びました。
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戦前の横書きで左から書く例(左書き)はあるのか。これは多かったようです。浅野信『巷間の言語省察』(1933)は、街で左書き・右書きが混在することを批判します。ただ、丸ビルの窓の文字は、同書執筆の4年前には両方式が混在していたが、執筆時点では「皆一様に右書きになつてゐる」とのことです。
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「地下鉄」の「鉄」は、昔も略字の看板がありえたのでは、というつぶやきを目にして確かめたら、実例がありますね。たとえば、下は昭和3年の東京地下鉄上野広小路駅入口の写真(「大林組百年史」)。「地下鉄」の例は私のフライングだったと、おわび申し上げます。
obayashi.co.jp/chronicle/100y…
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昔のドラマに出てくる文字を旧表記に忠実に書けば、時代考証的に正確になるだけでなく、ドラマの昔っぽい雰囲気を大いに盛り上げるはずです。衣服や家具調度とともに、文字というものは、その時代を明らかに映す大事な小道具です。ちょっとした表記も重要視してほしいのです。
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私は「難しいことをやさしく」述べることを目標にしていますが、それを実現するのは本当に難しいですね。自分では「これでいい」と思っても、なお「難しい」と言われる。難しいことを難しく述べるのは誰にでもできます。分かりやすく述べるのは書き手・話し手の義務だと、自らに言い聞かせる毎日です。
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新聞の読者から「日本語の乱れを憂いています」という長文のご感想。「憂え」の変化「憂い」からできた「憂いる」は『三省堂国語辞典』にも載せたし、私はOKだと思いますが、この方にとっては乱れた日本語ではないのかな?と余計な心配をしました。「乱れ」というのは本当に主観的なものです。
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『朝日新聞』に国語辞典に関するロングインタビューが掲載され、さっそく読者の方から反応をいただきました。中に、「自分は日本語を正す活動をしている。ぜひご協力を」といった内容のものが複数。「日本語を正す」という考えに疑問を呈したはずなのですが、そこを読解していただけなかった模様です。
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自分の意見と正反対の意見を言ったとして、その論理に破綻がなければ、それもまた、自分の力で作り上げた自分の意見です。ある学校行事を無意味と思う人が「有意義だった」と書くためには、「これこれの点でたしかに有意義だ」と認める必要がある。それはつまり、物事を多角的に見るということです。
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子どもの時、本心でない、きれいごとの作文を書くことに罪悪感を持ったという人がいます。でも、きれいごとが矛盾なく書けたということは、そのきれいごとの論理を理解したということで、悪いことではありません。自分の考えと異なる考え方を理解するトレーニングになっています。
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作文には、何も本心を書く必要はないので(!)、ひたすらきれいごとを並べるのも、文章の訓練法としてはアリです。「思ったことを書きなさい」と言われて困る子に、「じゃあ、いかにもいい子ちゃん的な文章を書こうか」と、いい子キャラになりきらせる方法もある。これで成功したこともあります。