児玉美月|Mizuki Kodama(@tal0408mi)さんの人気ツイート(リツイート順)

『私の少女』から8年ぶりのチョン・ジュリ監督の新作『あしたの少女』、8月25日に劇場公開が決定しました。フィルメックスで観てからずっと、日本公開を熱望していた映画です。私はプレスシートに文章を寄せました。どうか多くの人に届きますように。 twitter.com/tal0408mi/stat…
正直なところ、性的マイノリティを描く映画に出演した俳優のインタビュー記事には落胆することの方が多いけど、この言葉には救われた気持ちになった。と同時に「普遍的な〜」を始めとして、問題含みのお決まりの宣伝文句が、ひとつひとつ見直されていくことを切に願う。(自分自身への自戒も勿論込み)
2/23公開『逆転のトライアングル』試写。序盤の男女カップルの場面から秀逸。女性専用車両に対して「男性差別」だと言いだすような普段から構造的性差別に切に目を向けてなどいない人間が途端に「男女平等」を盾に利己的な主張をはじめる狡猾さと滑稽さを、こんなに巧みな風刺劇に落とし込めるのかと。
タイBLドラマはクィアの若者層をエンパワメントしてくれるコンテンツとしても素晴らしいものだった筈なのに、その層がアクセスしやすいYouTubeでの鑑賞ができなくなっていくのは悲しい。LGBTQ系コンテンツは、他のコンテンツとは事情が異なる側面があるのだということをほんの少しでも理解して欲しい。
結構前だけど、『燃ゆる女の肖像』関連で特に印象に残っていた記事。
かなり前にアップした、配信中のL映画をまとめた記事を未だにみてくれている方がいるみたいなので、近作の『ライカ-Laika-』『さよなら、私のロンリー』『ハピエスト・ホリデー』『ワールド・トゥ・カム』『燃ゆる女の肖像』『アンモナイト』を新たに追加しました。 note.com/tal0408mi/n/n3…
#LesbianVisibilityDay #レズビアン可視化の日 ということで、おうちで観られるL映画まとめ記事に5作品追加 🎞 note.com/tal0408mi/n/n3…
私が一人で在るということの孤独を語ると、「たとえパートナーがいたとしても結婚していたとしても子供がいたとしても人は孤独だよ」というようなことを時折言われるが、正直なところ、「孤独の質がまったく異なるので、その孤独についてはいま被せてきてこないでください」としか思わない。
女女の愛を「性別を超える/超えない」に還元してしまうのも、これに少し似ている気がする。どこにもないものだったり、なにかを超えているものだったり、自分たちの既知の世界から完全に切り離されたものとしてただ眺めるのは、さぞ甘美な体験なのだろうと思う。
"レズビアン映画"の特集記事が、某媒体から近いうちウェブ上に出ます。 なんだか心許ない感情に独りさいなまれたままで書きあげたばかりの結びの文章を、ひっそりとここに置いておきたいと思います。
『お嬢さん』の女と『はちどり』の女が「再会」する、ホン・サンス監督『逃げた女』は来年劇場公開予定なので、ぜひ観てください。
タイBLドラマ『Until We Meet Again~運命の赤い糸~』 前世で引き裂かれた恋人同士の生まれ変わりである二人が再び出逢う。時代や社会の同性愛を取り巻く変容を描出し、縦糸と横糸でほかのあらゆる悲しい物語を優しく編み込んでゆく。「今度は誰も死なない」という台詞が持つ言葉の力強さを忘れない。
リジー・ボーデン監督による『WORKING GIRLS』('86)がYouTubeで無料公開中。 映画はレズビアンカップルが一緒に住む家から始まり、舞台は娼婦たちの仕事場へ。女の性の労働と裸体が、フェティッシュも神格化も色気もなしにただ女たちのものとして活写される。 youtu.be/4MS2yNw8IGE
はっきり言って全く意味がわからない。まさか被害者の告発に、「知性」や「品格」が必要だと言いたいの?そしてそれらがなければ、被害者の「告発」は「告発」に値せず「無暴」と?被害者の「告発」を、だれが、なんの権利をもって、審判することが許されるというのか。
📚寄稿📚 本日発売の『ユリイカ』に、「台湾"クィア映画"──『青春神話』から『君の心に刻んだ名前』へ」と題した文章が掲載されています。ここ三十年ほどの台湾のクィア映画史を、蔡明亮や周美玲など重要な映画作家たちを足掛かりにしながら辿った約一万三千字です。 seidosha.co.jp/book/index.php…
「レズビアン/ゲイ映画ではなく普遍的なラブストーリー」のような言い回しが問題含みなのはそれがあまりに蔓延すると「レズビアン/ゲイ映画」は評価に値せず、「普遍性」に向かう作品ほど評価されるものとして(本来正当ではないはずの)評価軸のようなものが固定化されてしまうというのが一つある。
現実と乖離していると判断できる部分が含まれるとして、それを「ファンタジー」なる言葉で表現するのを避けたいのは、作り手が現実とは異なると分かった上で、そこに未来の似姿なり希望なりを託している可能性が頭を過るからで、その想いや表象を「ファンタジー」と言ってしまうのに抵抗があるから。
『ユンヒへ』が来年1/7に公開とのこと。無事公開日が決まって良かったです。 twitter.com/tal0408mi/stat…
テーマがレズビアンの母親で監督が女性の映画作品に、資金調達が円滑になるはずだからと製作総指揮を買って出てくれて、監督にした助言が「自分の感情は自分で処理すること」のたった一言だけだったホウ・シャオシェンに、最高に痺れた。──『日常対話』の製作背景 smalltalktw.jp
深田晃司監督が参加している表現の現場調査団による報告が出ました。映画の領域に関しては「審査員については男性80%、女性20%と男性が多勢を占め、男性主観による評価が積年常態化している状況が明らかになった。受賞者の統計を見ると、男性85%、女性15%とさらに差は開く」 tokyoartbeat.com/articles/-/hyo…
フェミニズム映画を批評する場で男性たちが皆低評価のなか私だけが高評価だと、私の属性が女性だから擁護してるだけとか贔屓目で観てるとかプロパガンダとか思われてしまうんだろうなとか色々考えてしまって、頭ではわかってても目の当たりにしてしまうと、やっぱりちょっとつらくなったりした。
「クィア映画」は単に「同性愛映画」の別名ではない。……から説明し始めようと思ったが、「誰かを愛することに性別は関係ない」から「そういう映画ですとカテゴライズする派に嫌悪感」とまで言う層に何を言っても伝わらない気がしてしまってやめた。カテゴライズを「理解あります!なふり」って……
例えばその映画において、ある人物がレズビアンだと伏せられた状態から劇中でそれがのちに明かされるなど「ネタバレ」扱いされていたとしても、以上の理由などから、その無邪気で悪意のない「ネタバレ」に抵抗し、いずれ無くしていくためにも、私ははっきりとレズビアンだと言う。
トランスジェンダーのローラが母を亡くして対立している父と旅に出る『海に向かうローラ』(2019)。ローラと理解に苦しむ父の対話は、そのままローラと観客との対話にもなってゆく。主演は実際のトランスの俳優。EUフィルムデーズで本日まで無料配信しています。観てください。 eufilmdays.jp/lineup/entry-1…
10/15公開『最後の決闘裁判』試写 一人の女が告発した性暴行事件を巡る物語を借用しながら、「真実」のスペクタクル化が描かれていく。唯一の掌握者であったはずの女の元から離れた「真実」は、男たちの闘いへ委ねられ、大衆の見せ物へ。良い意味でのプロットの不安定さが作品の重層性を担保している。