児玉美月|Mizuki Kodama(@tal0408mi)さんの人気ツイート(リツイート順)

今を生きる女性達のリアル的な感じで公開されたら称賛されそうな邦画の試写みたけど、結婚する/しないの自由があることを一本の映画を使ってまで声高に主張しなければいけない現状に辟易したし、制度自体に問題がありすぎてそもそもする/しないの次元ではなさすぎると思ってしまって全然ダメだった…
『映画評論家への逆襲』で『ミッドナイトスワン』が「泣かすためのマイノリティの便利使いでしかない」「無自覚な差別のオンパレード」と評されていたけど、その後に続く「でもそんな批評を誰も書いていない」の一文を読んで、自分一人は非力でも何度でも同じ事を言ったり書いたりすべきだと反省した。
女性の問題を描く映画であるにもかかわらず、書くのも撮るのも決裁を握るのも全て男性で、女性側が男性側に説明し理解を促すコストをかけなければならない不均衡な製作状況が見聞きしている限りでもあまりに多い。それなら何故はなから男性のポジションに女性がつけないのか。news.yahoo.co.jp/articles/9a85e…
キム・ギドク特集上映を強行する東京テアトルは性犯罪についてどんな見解を有しているのか。同映画館に通う被害に遭われた観客の方が不意打ちで目にしてしまったら、彼の犯したことを知らぬまま観た観客がのちに知り深い傷を負ってしまったら。安心と安全を保障すべき映画館が二次加害に無頓着すぎる。
少なくともそこを着地点にして話を終えるべきではないだろうと思った。「作品に罪はない」に加えて「清廉潔白」もそれが含まれる語りには慎重になってしまう。
『ザ・ハッスル』が劇場公開なし+購入のみでAmazonビデオで配信されたとのこと。 watch.amazon.co.jp/detail?asin=B0… twitter.com/tal0408mi/stat…
性的マイノリティを描く作品を、「これはファンタジー」「これはリアル」みたいに、単純な二項対立のみに基づいてそれごとジャッジし切ってしまう身振りそのものがまず苦手。ひとつの作品には想像的な部分と現実的な部分が不可分に混在しているし、フィクションはもっと複雑なものとしてあると思う。
こちらの『トムボーイ』の投稿に関しましてファインフィルムズ様よりご連絡いただき、監修の方を含んだ協議の結果、第一報にあった主人公を「少女」とする表現は、今後使用しないことに決定したとのことです。 twitter.com/tal0408mi/stat…
7/1公開『スーパーノヴァ』 コリン・ファースとスタンリー・トゥッチ演じる長年連れ添ったゲイカップルが旅の道すがら老いと病に向き合う。静けさの中に時間の堆積と深い愛情が刻印されてるよう。繊細な編集は『ゴッズ・オウン・カントリー』『アンモナイトの目覚め』のクリス・ワイアットによるもの。
特にジェンダーやセクシュアリティに関わる映画の作り手や送り手が差別的言動や振る舞いをする度に、寧ろ業界外の性的マイノリティの当事者や普段からそういった問題にコミットしている人達ばかりが声をあげている現状だけでも由々しき問題なのに、そこに対立構造を作りかねない事に加担してるの最悪。
然るべき相手を見つけて結婚して子を産むのが唯一の「正しい」道であるかのようなこの社会で、そこに乗っかれずにただ年を重ねていきながら女がひとりで物を書いていくことは、それだけでつねに逆風に立ち向かっているほど苦しい。絶望に屈せず、呪詛にのまれず、なけなしの気力を振り絞るのに精一杯。
日本の新作映画の試写を観終わって資料をみたら、同性愛(的表象)が描かれる後半部分を指して「ネタバレなので触れないでほしい」といったことが書いてあってまさにこれだった。映画の巧拙とは関係なくこうした作品の在り方、広報の在り方はもう今の時代にはそぐわないのではないかとずっと考えている。 twitter.com/tal0408mi/stat…
日本の映画会社は特にジェンダーや性的マイノリティに関する映画を扱う場合、きちんと最初から監修を入れるなどしてPR段階含め問題が起こらないようにしてほしい。何かあるたび声をあげてくれている人達の労力は無償ではないし、一度世に出て差別や偏見が助長されれば謝罪して済む問題でもないと思う。
ジェンダーバランスの議論の際に「制度で牽引すべき」というと、「実力/能力で選ばなければいけない」とあたかも平等であったものが不平等なものに変わるかのように口々に言い始めるが、そもそも正当に「実力/能力」で選んできた磁場など、過去にただの一度も発生していない。
異性愛映画に対しては「異性愛映画であることを超えて/にとどまらず〜」と言わないのに、「LGBT映画」に対しては「LGBT映画であることを超えて/にとどまらず〜」と言われるのは、マジョリティに受け入れられることを前提としている上に、明らかにそれを下位の概念に陥れてる謂であって賛同できない。
メディアにおける性的マイノリティに関わる映画批評・宣伝で「〇〇の枠にとどまらない」「〇〇を超えた」「普遍的な〇〇」などの定型文を無批判に援用し続けるのが常態化してしまっているのはけっこう問題だと思う。
12/16公開『そばかす』 Aセクシュアル/Aロマンティックをひとつの主題に持つ映画。三浦透子演ずる主人公がゲイの同僚や同性の友達など様々な人と関わりながら人生を模索してゆく。劇中「シンデレラ」を現代的に語り直す挿話に象徴されるように、男女が出逢うと恋が始まる物語の定石が打ち壊される。
前作『追憶と、踊りながら』でもゲイ男性を描いたホン・カウ監督の新作映画『MONSOON モンスーン』。日本のクリエイティヴから消された相手の男性とゲイの主人公が劇中で同フレームにいるスクリーンタイムは上映時間85分中20分程度で、二人の精神的・身体的な交流は重要なものとして映画を通して続く。
こういう時に発言してくれるクィア映画の送り手はとても素敵だと思います。 twitter.com/donuts_movie/s…
5/28公開『5月の花嫁学校』 1960年代のフランスの家政学校を舞台に、女たちが革命の足音とともに目覚めていく。ジュリエット・ビノシュが初めてパンツスタイルを纏う瞬間は感動的ですらあり、レズビアンの女の子たちはまだ見たことのない海を一緒に見ようと誓い合う。先人への敬意が結晶化した終幕。
トランス女性をシス男性の俳優が演じれば、俳優のジェンダーに引きずられてトランス女性は女性ではなく別の/元のジェンダーがあるという偏見を強化しかねない。それがトランスの俳優の数少ない就労機会を奪うと同時にどんな影響を及ぼすか等の検討もなく、称賛の言葉ばかりが並ぶべきではないと思う。
言うまでもなくこれはかなり温和な言い方をしてるのであって、そこには無自覚な同性愛嫌悪が底流にあるはずで、旧来より続いているこの日本の映画宣伝が抱えている宿痾をどこかで意識的に断ち切らないと、差別の再生産に加担し続けることになる。「その先」を目指したいなら、まずはそこからだと思う。
何度も呟いてるけど韓国映画で最も推したいのは女性監督チョン・ジュリの『私の少女』('14)。まさに声なき者に声を与えてくれた映画で、地味ながら社会的価値は計り知れず。ただでさえ製作の困難なマイノリティである女性の人権問題を主題にした本作を後押ししたイ・チャンドンの存在も有り難い。
それは大阪の訴訟や『バズ・ライトイヤー』の上映禁止など昨今の性的マイノリティを巡る諸問題に根差したものだったらしいが、考えが変わったこと、少し前の自分が言っていたことを自分自身が否定すること、そしてそれを臆せず表明する瞬間に立ち会えたことに対して心のなかでそっと深い感銘を受けた。
女性の映画作家によるレズビアン映画ということで劇場公開になるか気になっていた『The World to Come』が、『ワールド・トゥ・カム 彼女たちの夜明け』の邦題で配信スルー決定していたことを今知った。とりあえず楽しみ。 sonypictures.jp/he/11094748