201
心にある「おもい」はたいてい、自分には大切なことでも、他者には取るに足りないことのように感じられる。不思議なことだが、真剣に「書く」ことによって、その取るに足りないはずのことが、新しい意味を持つようになる。生まれてきた言葉が、自己との関係を強め、他者とのあいだを架橋するのである。
202
カントを読んでいたら、ルソーに流れ着いた。ルソーは、いわゆる「学校」なるものと、とにかく相性が悪かった。その人物が、教育をめぐって書いた『エミール』が今も読まれ続けている。ルソーの哲学は素朴で力強い。現代の言葉でいえば有用な「人材」ではなく、「人間」になれということなのだ。
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リーダーシップとは、人々から信頼を得ることだが、いつからか、いかに自分を主張するのかという方法論へと堕落していった。これほど信頼を得ていないリーダーが各所にいる時代は、近年、稀なのではないだろうか。リーダーシップを発揮し、人々を守るべきところで、ひたすら自分の思いを話すのである。
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これまで以上に「言葉」とは何かを真剣に考えなくてはなりません。あまりに言葉が軽視されているのです。食べ物を粗末に扱う人を快く思いません。しかし言葉はどうでしょう。食べ物が身体を養うように、言葉は私たちの精神の糧なのです。滋養のある食物があるように、叡知に満ちた言葉もあるのです。
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昼間、このtweetにふされている写真をみて、強い感動が胸を去らない。打ち消しがたい、人間の誇りのようなものを感じた。そして、非暴力の力もまた。本当にすばらしい。民衆の側にも、警察にもすばらしいリーダーがいるのだろう。 twitter.com/yoshilog/statu…
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「幅広い視野をもった優秀な人材を育てる」、こうした表現がはびこる場所ではすでに、個々の「人間」は見失われ、有用な「人材」の数だけが数え上げられる。「視座」を変えようとせず「視野」を広げてみたところで「弱い」人の姿は映るまい。声をあげずに苦しむ者の呻きにも気がつくことはないだろう。
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我慢している人は、いつも平気な顔をしている。我慢するとはそういうことだからだ。我慢強い人ほど自分を追い込む。だから、国も地方自治体、あるいは教育機関も、我慢ができなくなったという声を聞いたら、何かするというのでは後手になる。苦しい人は、苦しいとすら言えないこともあるのだから。
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習慣が人間を作る、とはよく言われることだが、いつの間にか電車でスマホを見ることが習慣になった現代で、電車に乗ったら、数ページでも本を読むことを「新しい」習慣にしてはどうだろう。人生を変えるような言葉は、数ページにわたって出てくるよりも、たった一行、一語の場合が少なくないのだから。
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素晴らしい。本の使者。この女性は、本にのせて「いのち」を運べる人です。本当に心を打たれました。 twitter.com/brutjapan/stat…
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自分を慰めてくれる言葉を見つけられないなら、自分を励ましてくれる言葉を必要としているのなら、自分の、ほんとうの居場所を照らす一語にまだ、出会っていない、そう感じているなら、もうどこかを探すのは止めて、自分で書けばよい。人は誰も自分を救う言葉を、自分のなかに宿しているのである。
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「Go To キャンペーン」は本当によく分からない。余計深刻な事態を招くだけではないのだろうか。この企画をNY州のクオモ知事に話すことができたら、相当に驚かれ、そして深い憐憫のまなざしでこちらを見てくれると思う。NY州は現在、国内、多くの他州からの旅行者に14日間の「検疫期間」を設けている。
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『ビッグイシュー』は、たぶん、毎号、買っていると思うのですが、何といっても誌面そのものがよいのです。内容がしっかりとしているのです。その国の書き手の熱意だけでなく、世界各地のちからが結集しているからでもあります。ぜひ、一度、買ってみてください。雑誌の可能性を感じると思います。 twitter.com/BIG_ISSUE_Japa…
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つくろい東京ファンド・東京アンブレラ基金の皆さんが、とても大切な活動を始めました。今の日本だけでなく、これからのこの国のありかたに一石を投じる試みになると思います。私も参加しました。お力添えをいただけましたら幸いです。詳しくは、こちらをご覧ください。⇒
congrant.com/project/umbrel…
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できないことがあっていい。むしろ、できないという現場で人は、自分を知り、友に出会う。かつて、できなかったことができるようになる。その過程で人は、できないことと、不慣れなことの違いを知る。できないことがあるのがいい。そこで私たちは、世に言う人生ではなく、自分の人生に出会うのである。
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本の内容を知るだけでよいなら要約本を読めばよい。しかしそれは噂話で人を理解するようなことになる。知識や情報を得るだけならそれでよい。しかし、人生の「友」を得ようとするなら、それでは不十分だ。直接「会って」、ゆっくり話を聞き、あるいは、聞いてもらうほかに道はない。それが読書だ。
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「利他」の語源は、19世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントにさかのぼる、という情報はネットを調べると随所にある。だがそれは少しおかしい。なぜなら「利他」は日本語で、平安時代、最澄、空海によって用いられた言葉だからだ。1000年もあとの人に由来を求める必要はないのではあるまいか。
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誰かと自分を比べれば、自分の特性が見えにくくなるのは当然だ。私たちはある年齢まで、人よりも秀でることを求められてきた。だが、それだけが人生ではないことに気がつく。そのとき、人生の後半が始まる。年齢は関係がない。ある人は10歳になる前に、一方、人生の晩節になるまで始まらない人もいる。
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「コロナ」後の世界はおそらく、時間と労力をかけて、これまで見過ごしてきたものを取り戻しに行くことになるでしょう。この前向きな旅は、後ろに向かって進むのです。読書も同じです。「古い」、しかし「古くならない」本を読みましょう。「新しい」とは不安定な、未熟なものの呼び名でもあるのです。
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数十万人の感染者がいても、日に100件しか検査をしなければ人数はつねに二ケタだ。ウィルスの問題だから実感は難しい。容易に消えない「たいまつ」をもって街を歩く人を想像してみるがよい。近くにいる人に燃え移るかもしれないだけでなく、さらに大きな事件になることもある。検査が重要なのだ。
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今日という日を深く感じるために、一冊の本が必要だとしたら、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳・新潮社)をお薦めしたいと思います。60頁の小さな本ですが、人生を変えるのに十分な重みをもっています。この本は彼女の遺著でもありました。ぜひ、お読みください。
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高村光太郎は自分を彫刻家だと思っていた。詩を書くのは彫刻を純化するためだとも書いている。だが、後世の人は彼をまず、詩人として記憶だろう。彫刻に向かうために、彼はどうしても詩を書かねばならなかった。苦しみにあって、彫刻を作らないときも、彼は詩は書いた。詩とはそういうものでもある。
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人は誰も、自分が思っている以上に真剣になれる。もしも、真の意味で「学び」が始まるとしたら、その地点だ。真面目であるよりも真剣であること。そこに自分に出会い、世界とつながる道が開ける。知識も経験も、その真剣さのあとについてくるものなのではあるまいか。
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読書とは、誰かが書いた結果を受け取り、理解するだけではない。言葉が紡がれる道程を追体験することでもある。もしそれを経験できれば、書き手は、理解したものを書くというよりも、書きながら認識を深めていることを身をもって知ることになるだろう。読むとはときに書き手の理解を超えることもある。
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雨ガッパは、いずれ、「竹やり」と同じような比喩になっていくのだろうな。無知と無謀の隠喩。
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3月31日付で東京工業大学を「卒業」しました。これからは執筆と講演、社会人教育にエネルギーを注ぎます。学びの土壌は、働くことによって、実に豊かに培われることが分かったからです。「勉強」は、何ものかに強いられて行うのでしょうが、「学び」は、真の自己に出会おうとする真摯な営みなのです。