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昨晩の「100分de名著」をご覧下さった方からこれまでとは別種の熱い反応を頂きました。こうした時期にトルストイ、そして北御門二郎にふれ、真の意味で愛と平和を再考する機会に携われたことを光栄に思います。大切なのは「解答」めいた言説ではありません。真摯に問い続けることなのです。 twitter.com/nhk_meicho/sta…
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ほんとうに
美しいものは
目に見えないのかもしれない
ひとの気持ちや
そっと語られた
言葉の意味
そして
沈黙に秘められた
祈りなど
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「利他」とは単に自分が「良い」と思う事の実践ではありません。それはしばしば「おせっかい」になります。目の前で成果が表れることをすることでもありません。真の意味で自他を「利する」には、刹那にとらわれない時間感覚が求められます。「利する」とは苦しみを滅することだと空海はいいました。
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『はじめての利他学』(NHK出版)が刊行になりました。利他の対義語は、と尋ねると多くの人が「利己」と答えます。日本語としての利他は平安時代空海・最澄によって説かれました。他を救うことです。「利己」は19世紀フランスで「愛他主義」の対義語として生まれました。由来の違う言葉なのです。
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見えないことと存在しないことは違う。感じられないことと存在しないこともまた。希望が見えなくても、希望は存在する。生きる意味を感じられなくても、意味は確かに存在する。だが自分の目に、苦しみ、悲しむ人の姿が映じなかったとしても、世の中には独りひざを抱えて涙する人たちも、必ず存在する。
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今日の東京都の感染者数は220人、検査数は5200人程度だ。状況はまったく改善していない。東京都を含むGO TO トラベルが今日から始まる。それだけでなく、いろんなところで規制が緩和される。その理由を知りたい。
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食事は、しばしば長い時間をかけて味わう。それなのにどうして、本を読む場合は味わうよりも、早く、多く読むことがよいことのように語られるのだろう。食物が身体の糧であるように、言葉は私たちの精神の糧ではないか。早く食べるだけでは栄養にならない。「身」に入っても素通りするだけだろう。
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街が平穏を取り戻したら、カフェで美味しいコーヒーが飲みたい。そこで、ゆっくり本を読みつつ、何かを書こうかと思いをめぐらせる。書けるかどうか分からないのだが、期待に胸は膨らむ。部屋ではなかなかそうはいかない。カフェは飲み物を飲むだけの場所ではない。まだ見ぬ自分に出会う場所でもある。
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詩を読まなくても、もちろん、詩を書かなくても生きていける。生活にも困らない。詩を読み、詩を書いても社会的な立場に変化はない。だが詩は、人生の危機にあるとき、悲しみの底から人を引き上げる。苦しみに心折れそうになるとき、生きる意味を照らし出してくれる。それが私の詩をめぐる経験である。
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朝起きて、天気が良い日は、今、世界が声にならない苦しみにあふれていることを忘れてしまう。だがしばらくすると、苦しみとは、苦しいとすらいえないことであり、苦しむ人はしばしば、人の目に隠れていることを想い出す。苦しむ人が声を失うことがあるように、悲しむ人は涙を涸らすことがあることも。
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単に考えるだけでなく、思索することが、どうしても必要なのは、人生を決定することの多くは誰かと考えるだけでなく、どうしてもひとりで思いを深めなくてはならないからだ。愛や希望、生きる意味を見失ったとき、それを再び見出すのは、考える力というよりも、思索し、思惟するはたらきなのである。
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学校がどういう場所かはともかく、若き日とは、様々な人生の問いに正面から向き合って、そこで苦しんでみることができる、そんな稀有なる日々ではないのだろうか。しかしいつの間にか学校は、「解答」や「情報」や「手段」を提供する場になっていった。なんと愚かな、そして決定的な欠落だろう。
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新学期をいつからにするかという話ばかりで「コロナ」以前から、学校に行きたいくないという声にならない「声」をあげてきた子供たちの存在を、社会がほとんど顧みてこなかったことを忘れてはならない。「弱い」立場にいる人と共にあることを考えない教育は、その本質を見失っている、と私は思う。
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一度も読み通せなかったのに、何度も読もうとしているから、本の背が割れ、紙もくたびれている。こうした一冊との関係には、興奮ともに一夜で読んでしまうような本との間には、比べものにならない深みがある。人は読んだ本からも影響を受ける。だが、読めなかった本とは別種の経験を育むことができる。
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「鎮魂歌」という作品に彼はこう書いています。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知っているものだった。」
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きわめて重要な指摘。その人の人生の本質は、履歴書など文書化されたものからだけでは見えてこない。そして創造的な表現者は、意図など考えて作品を生んではいない。むしろ、意図を超えようとする営みでなければ、芸術と呼ぶに値しない。文学は、言葉と不可視なコトバによる芸術である。 twitter.com/Kyohhei99/stat…
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人の「いのち」とは何かを、真剣に考えてみなければ、それを重んじているのか、軽んじているのかも分かりはしないだろう。コロナ危機は、さまざまな意味で「いのち」とは何かを見つめ直す契機だったはずだ。しかし、この国は政治や経済だけでなく、さまざまな場面でその機会を見逃したのだと思う。
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最近、時間が惜しく感じられる。何かにせき立てられているわけではないのだが、意味が希薄なことを耐えがたく感じるようになった。同時に、かつてよりこの世界をずっと愛しく感じるようにもなった。哲学者の九鬼周造が「惜(お)し」という感情は「愛(お)し」でもある、と書いていたが本当だ。
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重い言葉は人目につかず、人の海のなかに沈んでいくだろう。だが、そうした言葉は、何かの理由で人生という海の深みを経験する人に見出される。不思議なことだが人は、海に沈んでいた言葉を胸に抱きながら、もう一度、世に浮かび上がってくるのだ。苦しんでいたのは自分だけではないという確信と共に。
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8月1日(月)22:25~、100分de名著「for ティーンズ」に出演します。トルストイの民話『人は何で生きるのか』を取り上げます。周知のようにトルストイは、「反戦」というよりも「非戦」を説いた人でした。訳者の北御門二郎も同じです。そして「神は愛なり」という一節が、この作品の核心です。
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少し寒くなってきました。心身とも準備が必要な季節です。特に今年は。身体の糧はともかく、心の糧となる「言葉の薬箱」や「言葉の備蓄」が必要なのかもしれません。この言葉にふれることができれば、心を流れるものを止めることができ、心の渇きを癒せる、そんな言葉を蓄え、自分の近くに置くのです。