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当たり前のことだが、40代と50代は違う。50代になると、「老い」も「死」も概念ではなく、出来事になる。自分だけでなく、自分の周囲においても老いと死の経験を深めることになるのだ。それにもかからず、いつまでも若く、いつまでも死なないように生きるとすれば、よほどの楽天家か、愚か者だろう。
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懸命になって誰かが作った「定規」に、自分を合わせようとしているうちに人生は、取り返しのつかない所へ運ばれていくのではないか。自分であろうとするのではなく、誰かに評価されようとして生きているのだから、自分を見失って、評価らしきものを得るのだろう。その評価が望んだものとは限らないが。
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今日から、東京でも社会が動き始めた。勤務先、学校へ行くのはよい。だが、行かねばならないと強く強制するのは止めた方がよい。特に学校がそうだ。教室に足を運ばなくてもちゃんと教育を受けられる制度を確立するべきだ。行きたいと思わない人を「落伍者」のように扱う社会はもう終わりでいいだろう。
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アルフォンス・デーケン神父が亡くなった。日本における死生学、グリーフケアは彼の存在なくして語れない。第二次大戦中、彼の家族はすでに明確な反ファシズム運動を実践していた。それにもかかわらず、無防備だった祖父を偶発的に連合軍に銃撃される。これが彼にとっての「死」の最初の経験だった。
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大型書店に行くといつも、もう本は書かなくてもよいかなと思う。本があまりに多いのだ。しかし小さな古書店で、意中の本に出会うと、自分がこの世をあとにしても、未知なる読者に会えるのは、本を書いたからではないか、と思い直している。
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3月、「100分de名著」に出ます。今回のテーマは「災害を考える」。寺田寅彦『天災と日本人』柳田國男『先祖の話』セネカ『生の短さについて』池田晶子『14歳からの哲学』を取り上げます。東日本大震災から10年ですが、それだけでなく、災害と「いのち」をめぐって考えます。hanmoto.com/bd/isbn/978414…
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私が、「わたし」であろうとすることが、どうしてこれほど難しいのか。そう感じたところから文学も哲学も、そして現代では心理学も始まった。そして、「わたし」でありながら同時に「わたしたち」である道を探ったのが宗教だ。
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大学にいると、出来ないことがよくないことのように語られる。よりよく「できる」人が優秀だと信じられている。しかし、私が人生で経験したのは、まったく違う現実だ。何かが出来るのはよい。しかし出来ないことがあってよい。そこに、様々な発見や出会いや友情、愛情といった出来事が起こるからだ。
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本日の東京新聞朝刊に、梨木香歩さんの『ほんとうのリーダーのみつけかた』(岩波書店)の書評を書きました。これまでのリーダー論は、いかにリーダーになるかをほとんど空想的に書いていましたが、この本は違います。自己と深くつながることが、真のリーダーとは何かを認識する始まりだと説くのです。
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昨日の東京新聞朝刊に梨木香歩さんの『ほんとうのリーダーのみつけかた』(岩波書店)の書評を書きました。それがネットでも読めるようになりました。小さな本ですが、今、この本が私たちの手元にある意味を感じながら、ゆっくり読んでみたい、そう感じさせる重い一冊です。tokyo-np.co.jp/article/50399
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本を読むのは、記述内容を理解することよりも、この世界、あるいは人間のありようを深く感じるためかもしれません。読書は、文字を通じてだけ行われるのでもありません。イメージや感触、直観による認識も意識下では生きています。よく理解できなかった、そんな本からも影響を受けるのはそのためです。
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この国は、少なくてもこの20年間、「いのち」とは何かを真剣に考えてこなかった。政治だけでなく、教育の現場においても。だから「いのち」が傷つくということがどういうことかを知ろうともしない。「いのち」の危機とは何かが分からない。そうした者たちが、どうやって「いのち」を守れるというのか。
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天才たちは別にして文学、哲学、そして宗教も、それらがその人の中で、かけがえがないものになるには、ある年月が必要なのかもしれない。若い頃はやはり、多く知りたいと思っていた。しかし年齢を重ねてくると、今の自分と本当につながる何かとの出会いを渇望している。知識ではなく叡知との邂逅を。
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誰かを愛しいと感じる。だが、年齢を重ねてくると、「人」だけでなく、今日という一日を愛しく感じる。「時」もまた「人」とは異なる姿をして「生きている」と強く思う。自分以外の誰かに慰められ、癒されることがあるように「時」にも癒されるのはそのためだろう。
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年末年始、住まいを失う方をサポートするクラウドファンディングのご案内です。寒さが厳しい中、屋外で暮らしている人たちがいます。多くは人の眼に隠れた所で日々を生きています。そんな方々に「あたたかな居所と支援の手を届けたい」という活動です。ぜひ、ご支援下さい。
camp-fire.jp/projects/view/…
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特定の神は信仰していない。特定の宗教とも関係がない。そんな人は多くいるのだろう。しかし、一度も祈ったことがない、という人は少ないのではないか。自分が、大切な人が試練にあるとき人は、何ものかとつながろうとする本能のようなものがあるのではないか。私がいう「祈り」とはそういうものだ。
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哲学史について詳しくなっても、その人のなかで叡知が目覚めるとは限らないように、多くの詩集を読み、詩について詳しくなっても詩を書けるようになるとは限らない。詩とは、言葉によって言葉たりえないものを世に送り出そうとすることだから、詩を書いて「書けない」という経験を深めるほかない。
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いつからか人生の長期計画を立てなくなった。あまり意味がないことが分かったからだ。未来を見て仕事をするよりも、今に深く根を下ろす方がよいと思った。未来は文字通り未定だが、今どう生きるかは、まさに今、問われているからだ。今に応答しなくてはならない。考えてみれば素朴なことだった。
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立ち上がれないことが弱さなら、そうならないことが強さなのではなく、立ち上がれない人に黙って寄り添うのが真の強さだ。自分もまた、おびえながら立とうとしていると「弱さ」において、人とつながろうとするのが本当「強く」あることだと思う。愚かな、あまりに鈍感な「強がり」はもういらない。
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自分を励まし、支える言葉はあった方がよい。人生の暗がりを歩くときの光になってくれる。それと共に、自分を食い止める言葉もまた、しっかり携えておいた方がよい。怒りやいたずらな羨望などの自分であることを邪魔する気持ちから引き戻す言葉である。言葉は見えない護符である。持っていた方がよい。
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親しい人が亡くなると、いつか自分も逝くのだと改めて思う。そしていつか、ではなく、どんな時期であれ自分が思っているよりも早く、必ず死ぬのだ。本当に大切な人たちとの時間を愛しみたい。自分だけで生きているのではない。人々と共に生きている。そんな素朴なことが人生の宝物のように感じられる。
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大学を辞めようか迷っているとき、伊集院光さんとお話しする機会があった。「若い人に言葉を届けたくて大学の教師になった」と言ったら伊集院さんが「えっ?大学から出た方が言葉は届くかもしれないけどね」と言われ、何か肩の荷が下りたように思いました。これからは若い人の所へ出向いて参ります。
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今、必要なのは、大胆であることではない。「思慮深く」あることだ。今の日本の政治に、最も欠けているものかもしれない。思慮深くあるためには、過去と今と未来を一つの「時」として認識できるような熟慮と洞察がいる。思慮深くあるために遠ざけるべきもの、短絡的思考といたずらな強がり。
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こうした危機のとき、もし、自分が所属する組織から「指示」と「方針」だけが伝えられて、ねぎらいの言葉もなければ、その組織への信頼は薄れていくだろう。危機のときに人間をいたわることを知らない者を信頼しても、その先はないからだ。こんなことは考えない日々がよい。しかし、それもまた現実だ。
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AIは常に最適な答えを提示するのかもしれない。だが、そんな人とは「知り合い」にはなっても親友にはなれないだろう。AIは、おもいを胸に秘めたまま、一緒に苦しんだりはしないだろう。あるいは、見えないところで祈ったりもしないだろう。人間はそもそも「知能」だけで生きているわけではないのだ。