1
自分を励まし、支える言葉はあった方がよい。人生の暗がりを歩くときの光になってくれる。それと共に、自分を食い止める言葉もまた、しっかり携えておいた方がよい。怒りやいたずらな羨望などの自分であることを邪魔する気持ちから引き戻す言葉である。言葉は見えない護符である。持っていた方がよい。
2
読書とは、誰かが書いた結果を受け取り、理解するだけではない。言葉が紡がれる道程を追体験することでもある。もしそれを経験できれば、書き手は、理解したものを書くというよりも、書きながら認識を深めていることを身をもって知ることになるだろう。読むとはときに書き手の理解を超えることもある。
3
生きるとは、一度きりの生涯で、何が自分にとって、かけがえがないのかを見出し本当の意味でいつくしむことだろう。それは、ほかの誰かが重んじているものではなく、自分の欲するものでもないかもしれない。ともあれ私たちは、しばしば、何を探すべきかも知らずに何かを探しているのではないだろうか。
4
どんな本を読むのかは重要だが、どんなによい本でも出会う時期が違うと深くつながることができない。読書には読書の道と呼びたくなるものがあって、出会うべき時に出会うべき本に出会う準備があるように思う。「本」というよりは、「言葉」との遭遇といった方がよいのかもしれないのだが。
5
月に何冊読むかは読書の本質とは関係がない。そして、こうした論議はどこまでいっても表層的だ。ある人は同じ本を複数回読み、容易に読み進められない本と深く向き合うこともあるだろう。ただ、何かと併読しながらでよいので、詩と古典を読むのはよいと思う。早く読もうとする私たちを戒めてくれる。
6
うまく生きる人には知識が豊富にあり、それはそれでよいことなのだろう。だが半世紀ほどの人生で私は、生きるのが下手な人たちの姿にこそ語り得ない叡知を目撃し、打たれてきた。その人の生を肯定するのは知識よりも叡知である。叡知とは転んだ人間が再び顔を上げるそのときに経験する出来事でもある。
7
人が癒せない傷を、言葉を語れない動物たちが癒してくれるように、言葉では表現しきれないことを沈黙が伝えてくれることもあるだろう。言葉によって人は大きな慰めを得ることがある。だが、癒えるためには慰めとは異なるはたらきも必要だ。その何かは言葉よりも沈黙のほうに豊かにあるように思われる。
8
世の中には、目にしたものを「つまらない」の一言で片づける人がいる。その人にとってはそうなのだろう。それでよい。だがどうして、それを人に押し付けるのか。そして、なぜそうした人の声を真実として受け容れようとするのか。愛のない、辛辣であるだけの言葉に、どうして身をまかせようとするのか。
9
あるときまで私は、誰かに自分を受け容れてほしい、と強く願っていた。そういう人との出会いを求めていた。だが、自分を受け容れるのは、まず自分であることを知って人生が変わった。変わったというよりも、そこから人生が始まったように感じている。真に自分を受けれ得るのは、自分のみなのである。
10
詩を書き始めて驚いたのは、詩壇の人から強く批判され、詩の世界とは別なところで詩を愛するさまざまな人とつながりを持つことができたことだった。文壇、歌壇、俳壇など「壇」とは何と狭い世界だろう。芸術とは本来、そうした枠から自由になろうとする営みなのではないか。
11
誰かを驚かせるような文章は書かなくてもよい。だが、どんなに小さくても自分を驚かせる言葉をつむぐのがよい。自分を納得させる言葉ではなく。自分の書いた文章の、最初の、最も熱き読者は自分ではないか。私は、こんなことも大切に思っていたのかと、己れの眼を開く言葉を、密かに世に生むのがよい。
12
考えを整理してから書こうとする人が少ないない。しかし、それではあまり筆が進まないかもしれない。なぜなら「書くこと」こそ、考えを整える最適の方法だからだ。整理しないと書けない。そう感じているのは書かないからに過ぎない。「案ずるより産むが易し」とはこうときにも用いる言葉だと思う。
13
もしも意中の作家や芸術家がいて、その人の話や演奏を直に聴く機会があるなら、なるべく足を運んだ方がよい。もちろんZOOMでもかまわない。一度でよいので「時」を同じくする経験を持てれば、それが生涯の宝になる。学生時代、大学に行かずにそんなことばかりしていたが、その経験は今も消えない。
14
若い頃、私は何かを成し遂げた人たちを羨望のまなざしで眺めていた。しかし今は、そうしたことにほとんど関心がない。今は、何かを真剣に愛し、そして、悲しみを経験した人たちの言葉を、言動を信頼している。人生は思うようにならない、という地平を生きる者たちに深い畏敬の念を抱いている。
15
人生は短いと人は言うが、違う。人が時間を浪費し、人生をその質において「短く」しているのだ、と書いたのはローマ時代の哲学者セネカだった。確かに人生は様々な理由で短い。大切に思う人たちとの時間は、いっそう限られている。人はいつか逝くのではない。いつも思っているよりも早く逝くのである。
16
優れているのは良いことなのかもしれない。しかしそれは比較、競争の世界の話でしかない。ある時期を境に私たちは、比較、競争とは別の世界があることを知る。その地平のどこかにずっと探してきて何ものかの存在も同時に予感するのではないだろうか。誰かと比べるのをやめること、そこに自由がある。
17
「(ほんとうに自分がやりたいこと、なすべきことにささげようという)決心をするとき、人のこころには『もうよけいなことをしている暇はない。なるべく自分にとって本質的なことをやろう』いう思いが満ちあふれていることであろう。」神谷美恵子『こころの旅』にある一節だが、本当だと思った。
18
私たちは、パソコンやスマホを前にすると、簡単に数時間の時間をそこに注ぐ。しかし、その数分の一でも、写真のデヴィッド・ボウイのように過ごすこともできるのだ。本は、わずかな部分を読むだけでもよい。特によい本ならよい本は分だけ、部分にふれるだけで重大な意味がある。 twitter.com/ElliottBlackwe…
19
いつからだろう。一生懸命であるだけでは意味がない、というような言葉がまかり通るようになったのは。懸命に何かをすることが、格好悪いと思われるようになったのは。懸命に生きる者の姿は、本人が感じているよりもずっと美しい場合がある。格好の良さなどとは比べものにならない美が宿ることがある。
20
厳しい時代ですから、生きているだけでも本当に大変なことです。どこでも不必要に比べあったり、傷付けあったりしなくてはならないんですから。だからせめて自分にだけは、今日もよくやったとねぎらいの言葉をかけるようにしましょう。そうあった方がよいのではなく、そうあらねばならないのですから。
21
ほんとうに
美しいものは
目に見えないのかもしれない
ひとの気持ちや
そっと語られた
言葉の意味
そして
沈黙に秘められた
祈りなど
22
人は誰も、自分が思っている以上に真剣になれる。もしも、真の意味で「学び」が始まるとしたら、その地点だ。真面目であるよりも真剣であること。そこに自分に出会い、世界とつながる道が開ける。知識も経験も、その真剣さのあとについてくるものなのではあるまいか。
23
大切なことは
しばしば
ひとりのときに営まれる
本を読むこと
言葉を紡ぐこと
祈ること
そして
傷ついた
自分をいつくしむこと
24
文章を書くことを「知的」な営みであるという人はきっと、若い頃の私がそうだったように、まだ真剣に言葉を紡いだことがないのかもしれない。「書く」とは、全身を用いなければ行えない労働である。手は、全身の営みの先端として働くに過ぎない。書き終えたとき、全身に疲れが残るのはそのためだ。
25
好きなものは、いつか嫌いになるかもしれない。しかし、愛するものは違う。真の愛は対義語を持たない。愛するとは、そのままを受け容れることである。自分を好きになる道を探せば迷うだろう。自分は、好きになる対象ではない。愛する対象にほかならないからだ。