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今の日本のありように苦しくなると、世界にはこんなリーダーもいるのだと思い直して何度も何度も見直している。弱い人により近く、より厚く手を差し伸べるリーダー。どこかオカシオ=コルテスと似た雰囲気がある、そう感じるのは私だけだろうか。 twitter.com/benmckenna/sta…
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うまい文章とその人しか書けない文章は、全く違う。そして、世にあふれているのは「うまい文章」の方なのだ。だから、うまいだけの文章は消えて行く。「うまく」書いてはならない。それはいつも、誰かの言葉に似ているだけでなく、造られた、いのちの通っていない、ありふれたものに過ぎないからだ。
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もう一言だけ。思うことを「うまく」書けても、あまり面白いことは起きません。「書く」醍醐味は、思ってもみないことを書き出す自分に驚くことにあるからです。「うまく」書く人は世に多くいます。「わたし」だけが書けるものを書きましょう。そうした言葉はどこか力強いものです。おやすみなさい。
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良い本があったので、アマゾンでレビューを書いた。同じ本で☆1つの評価をしている人がいたが、そこにあるのは良し悪しの判断ではなく、嫉妬や恨みに似た何かのように感じられた。他者を不自然に低く評価しない方がよい。その人はいつか気が付かないうちに、自分自身もそうした眼で見るようになる。
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何かを学んでみたところで、すぐに世界を変えることはできない。しかし、学んだその日から「わたし」は少しずつ変わり始める。世界との関係も世界の姿も、他者との関係も他者の姿も変わってくる。真の意味で「学ぶ」とは「わたし」のなかでの起こる精神の革命を準備することにほかならない。
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恐怖の心情が人間から奪うのは、いつくしみであり情愛である。恐怖や動揺に心を乱されたくないなら、自分と他者と、この世界をいつくしむのがよい。人が何かを大切にするように、他の人にも大切なものがあることを噛みしめてみるのもよい。「強さ」で切り抜けるのではなく「弱さ」で支えあうのもよい。
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アグネス・チョウ氏もジミー・ライ氏もともに釈放された。映像も確認したので寝ます。今日ばかりは、ゆっくり休んで欲しい。まずは、無事でよかった。
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もしも意中の作家や芸術家がいて、その人の話や演奏を直に聴く機会があるなら、なるべく足を運んだ方がよい。もちろんZOOMでもかまわない。一度でよいので「時」を同じくする経験を持てれば、それが生涯の宝になる。学生時代、大学に行かずにそんなことばかりしていたが、その経験は今も消えない。
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うまく生きる人には知識が豊富にあり、それはそれでよいことなのだろう。だが半世紀ほどの人生で私は、生きるのが下手な人たちの姿にこそ語り得ない叡知を目撃し、打たれてきた。その人の生を肯定するのは知識よりも叡知である。叡知とは転んだ人間が再び顔を上げるそのときに経験する出来事でもある。
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祈っているだけではだめだ。何かをしなくてはならない、というような言葉をしばしば聞く。一面の真理だろうが現実はもう少し複雑で、祈るほかないときもあるし、祈ることから始めなくてはならないこともある。理知では不可能に感じられたことでも、祈りのうちにある決意が訪れることもあるのだ。
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知的であることは素晴らしい。しかしそれが唯一の在り方ではないだろう。優れて知的でなくても素晴らしい生き方をしている人は無数にいるからだ。だが大学では、知的であることが最初の扉になる。「知」の扉は、「情(感情)」や「意(意志)」の扉の後でもよいのであるまいか。人の痛みが分かる知性。
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ひとは
悲しいから
泣くとは限りません
悲しみは むしろ
涙が涸れてから
深まるのです
ですから
忘れないでください
悲しみを生きるほかない
多くの人は
ほかの誰もが
気が付けない場所で 独り
心を震わせながら
生きているのです
だから簡単には
元気そうだね
なんて
言わない方がいいのです
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厳しい時代ですから、生きているだけでも本当に大変なことです。どこでも不必要に比べあったり、傷付けあったりしなくてはならないんですから。だからせめて自分にだけは、今日もよくやったとねぎらいの言葉をかけるようにしましょう。そうあった方がよいのではなく、そうあらねばならないのですから。
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メディアで「コロナ後」の働き方は、と来週あたりからのことを語っているのをみると、本当に不安になる。今、私たちは「コロナ禍」の「ただなか」にいるのではないか。危機の正体が分からないまま、危機の後を先取りするこうした姿勢が、問題を直視しないまま、今の社会不安を作ってきたのではないか。
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どんな本を読むのかは重要だが、どんなによい本でも出会う時期が違うと深くつながることができない。読書には読書の道と呼びたくなるものがあって、出会うべき時に出会うべき本に出会う準備があるように思う。「本」というよりは、「言葉」との遭遇といった方がよいのかもしれないのだが。
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好きなものは、いつか嫌いになるかもしれない。しかし、愛するものは違う。真の愛は対義語を持たない。愛するとは、そのままを受け容れることである。自分を好きになる道を探せば迷うだろう。自分は、好きになる対象ではない。愛する対象にほかならないからだ。
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本は、師であり友でもある。生きる道に迷ったとき、歩き続ける勇気が湧かないとき、あるいは悲痛を噛みしめ語ることがままならないようなときでも、無言のまま寄り添ってくれるのは書物である。また、人生の危機だけだけなく、何気ないとき、共にあって、心に安らぎを覚えるのも師友である。
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文章を書くことを「知的」な営みであるという人はきっと、若い頃の私がそうだったように、まだ真剣に言葉を紡いだことがないのかもしれない。「書く」とは、全身を用いなければ行えない労働である。手は、全身の営みの先端として働くに過ぎない。書き終えたとき、全身に疲れが残るのはそのためだ。
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ハンナ・アーレントを強く思う日々。「〈より小さな悪〉を実行した人は、すぐに自分が悪を選択したことを忘れてしまう」(「独裁体制のもとでの個人の責任」『責任と判断』中山元訳)。「大きな悪」ではなく「より小さな悪」なら問題はない。そうした考えが、全体主義を蔓延させるというのです。
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大切なことは
しばしば
ひとりのときに営まれる
本を読むこと
言葉を紡ぐこと
祈ること
そして
傷ついた
自分をいつくしむこと
121
年齢を重ねてくると、若い頃にもっと学んでおけばよかったと感じることが、しばしばある。若さとは、楽しむために与えられた条件であるよりも、むしろ、学ぶために準備された時間なのだと今さらながらに思う。
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売っているものは、私以外の人でも買うことができる。だが、この世には「わたし」だけが見つけられるものもある。誰かが探してくれるものは、他の人に任せればよい。「わたし」にしか分からない、「わたし」にしか見出せないものをこそを探さねばならない。それが生きる意味だからだ。
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最近、再読してもっとも驚いたのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。これまでこの本を何度読み、何度語ったか分からない。だが、危機の時代を生きて、この物語が、作者の危機と時代の危機のなかで生まれた意味が実によく分かった。そして、この作品は死者たちへの贈り物でもあるのだ。
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詩集は「読む」とは別の味わい方がある。「書き写す」ことだ。意中の詩集を一つ見つけ、ノートや原稿用紙に書き、「もう一冊」の詩集を作るのである。この素朴な営みに秘められているのは、単なる熟読を超えた、全身で「読む」という経験だ。そして、他者に書かれたとき新生する意味のうごめきだ。
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本を読むのは、多くの情報や知識を得るためであるよりも、深く考えられるようになるためだ。知が力であるように見えるのは幻想だ。知識だけではない。どんなものでも、単に多く得たところで仕方がない。それを思慮深く用いることができて、初めて生きた知恵になり、叡智になる。叡智こそが力なのだ。