若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(いいね順)

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当たり前だが人は、毎日、着実に年を取る。今52歳だ。40代と50代が、これほど違うとは思わなかった。60代はまた違うのだろうか。かつては見えなかった何かが見えてくる。もちろん、かつては見えた文字は見えにくくなるのだが。しかし、不思議なのだ。視力は弱くなるが、意味の感じる力は別なのである。
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遠くが見えるのは、よいことかもしれない。しかし、どんなに遠くが見えても、近くが見えなくなっているとしたら注意が必要だ。遠くが見えることは、世に重宝がられるかもしれない。だが、近くが見えないときは、大切な人の危機を見過ごすことすらある。愛すべきものは常に遠くにではなく、近くにある。
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高村光太郎は自分を彫刻家だと思っていた。詩を書くのは彫刻を純化するためだとも書いている。だが、後世の人は彼をまず、詩人として記憶だろう。彫刻に向かうために、彼はどうしても詩を書かねばならなかった。苦しみにあって、彫刻を作らないときも、彼は詩は書いた。詩とはそういうものでもある。
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本日の東京新聞朝刊に、梨木香歩さんの『ほんとうのリーダーのみつけかた』(岩波書店)の書評を書きました。これまでのリーダー論は、いかにリーダーになるかをほとんど空想的に書いていましたが、この本は違います。自己と深くつながることが、真のリーダーとは何かを認識する始まりだと説くのです。
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食事は、しばしば長い時間をかけて味わう。それなのにどうして、本を読む場合は味わうよりも、早く、多く読むことがよいことのように語られるのだろう。食物が身体の糧であるように、言葉は私たちの精神の糧ではないか。早く食べるだけでは栄養にならない。「身」に入っても素通りするだけだろう。
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ほんとうに 美しいものは 目に見えないのかもしれない ひとの気持ちや そっと語られた 言葉の意味 そして  沈黙に秘められた 祈りなど
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最近、時間が惜しく感じられる。何かにせき立てられているわけではないのだが、意味が希薄なことを耐えがたく感じるようになった。同時に、かつてよりこの世界をずっと愛しく感じるようにもなった。哲学者の九鬼周造が「惜(お)し」という感情は「愛(お)し」でもある、と書いていたが本当だ。
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できないことがあっていい。むしろ、できないという現場で人は、自分を知り、友に出会う。かつて、できなかったことができるようになる。その過程で人は、できないことと、不慣れなことの違いを知る。できないことがあるのがいい。そこで私たちは、世に言う人生ではなく、自分の人生に出会うのである。
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自分を励まし、支える言葉はあった方がよい。人生の暗がりを歩くときの光になってくれる。それと共に、自分を食い止める言葉もまた、しっかり携えておいた方がよい。怒りやいたずらな羨望などの自分であることを邪魔する気持ちから引き戻す言葉である。言葉は見えない護符である。持っていた方がよい。
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人は誰も、自分が思っている以上に真剣になれる。もしも、真の意味で「学び」が始まるとしたら、その地点だ。真面目であるよりも真剣であること。そこに自分に出会い、世界とつながる道が開ける。知識も経験も、その真剣さのあとについてくるものなのではあるまいか。
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他人の「あたま」に何が入っているのかではなく、自分の「こころ」にあって、見過ごしてきたものが何であるのかをを知りたい。哲学は究極的には自問自答になる、とソクラテスが言うのも分かる気がする。誰かが言ったことをまとめてみても自分の「こころ」は分からない。誰かと対話しなくてはならない。
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単に考えるだけでなく、思索することが、どうしても必要なのは、人生を決定することの多くは誰かと考えるだけでなく、どうしてもひとりで思いを深めなくてはならないからだ。愛や希望、生きる意味を見失ったとき、それを再び見出すのは、考える力というよりも、思索し、思惟するはたらきなのである。
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誰も自分のことなど気にかけてくれない、そう感じる時でさえも、いつもと変わらずその人を、というよりも、その人の魂を、魂であるその人を見つめている、それが愛するということだろう。だから私たちは、愛されているのが分からないこともある。
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3月、「100分de名著」に出ます。今回のテーマは「災害を考える」。寺田寅彦『天災と日本人』柳田國男『先祖の話』セネカ『生の短さについて』池田晶子『14歳からの哲学』を取り上げます。東日本大震災から10年ですが、それだけでなく、災害と「いのち」をめぐって考えます。hanmoto.com/bd/isbn/978414…
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若いときでも、世に生きていくのに必要なものは分かっていた。だから、それを求めてさまざまなことを試みた。しかし、年齢を重ねていくと、世に生きるだけでなく、人は誰も、自分の人生を生きなくてはならないという厳粛な事実を知った。そこでは世の常識とはまったく別種の叡知が必要なことも。
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本の内容を知るだけでよいなら要約本を読めばよい。しかしそれは噂話で人を理解するようなことになる。知識や情報を得るだけならそれでよい。しかし、人生の「友」を得ようとするなら、それでは不十分だ。直接「会って」、ゆっくり話を聞き、あるいは、聞いてもらうほかに道はない。それが読書だ。
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「書けない」という人は少なくない。だがその多くはまだ、何も真剣に書いていないか、「うまい」文章を書きたいと思っているかのどちらかであることが多い。「書く」のは難しくない。まず、書いてみる。そして、「うまく」書こうなどと思わないことだ。「うまい」文章はいつも、誰かの言葉に似ている。
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「弱さ」とは、ほとんどの場合、私たちの目には映らない。この事が常識にならなければ、世界は、大きくは変わるまい。私もまた、最も「弱く」あったとき、口癖だったのは「大丈夫」だった。「大丈夫?」と聞かれて「うん、大丈夫」と答える。現実は、いのちの火はもう消えかかえっていたのに、である。
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一度も読み通せなかったのに、何度も読もうとしているから、本の背が割れ、紙もくたびれている。こうした一冊との関係には、興奮ともに一夜で読んでしまうような本との間には、比べものにならない深みがある。人は読んだ本からも影響を受ける。だが、読めなかった本とは別種の経験を育むことができる。
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古書店の存在を忘れるわけにはいきません。古書店は、単に古くなった本を売る店ではありません。時代に忘れられつつありながらも、けっして消えてはならない本の「貯蔵庫」でもあります。古書の世界は、じつに楽しく深いです。何よりも歴史と出会う場です。私の夢は、小さな古書店を開くことなのです。
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ハンナ・アーレントを強く思う日々。「〈より小さな悪〉を実行した人は、すぐに自分が悪を選択したことを忘れてしまう」(「独裁体制のもとでの個人の責任」『責任と判断』中山元訳)。「大きな悪」ではなく「より小さな悪」なら問題はない。そうした考えが、全体主義を蔓延させるというのです。
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「利他」とは単に自分が「良い」と思う事の実践ではありません。それはしばしば「おせっかい」になります。目の前で成果が表れることをすることでもありません。真の意味で自他を「利する」には、刹那にとらわれない時間感覚が求められます。「利する」とは苦しみを滅することだと空海はいいました。
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『はじめての利他学』(NHK出版)が刊行になりました。利他の対義語は、と尋ねると多くの人が「利己」と答えます。日本語としての利他は平安時代空海・最澄によって説かれました。他を救うことです。「利己」は19世紀フランスで「愛他主義」の対義語として生まれました。由来の違う言葉なのです。
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愚者になびこうとするとき、その者もまた、愚者になる。昨今の「専門家」の姿を見ていると、そう感じる。
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本を読めないときは「書く」ときです。誰かのではなく、己れの心にある、まだ言葉の姿をしていない、未知なるコトバを見出すときです。少しの間、私達は試練の日々を過ごさねばなりません。それを落胆の日々ではなく、意味ある日々に変容させるのは、誰かのではなく、自らの生に裏打ちされた言葉です。