若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(いいね順)

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本を読めなくなったら  書くときだ 書けなくなったら  つぶやくときだ つぶやくこともできなくなったら  嘆くときだ 嘆くことができなくなったら  うめくときだ なぜなら  声を出さずにうめくことは 言葉にならない  別の姿をした祈りだからだ
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文章を書くことを「知的」な営みであるという人はきっと、若い頃の私がそうだったように、まだ真剣に言葉を紡いだことがないのかもしれない。「書く」とは、全身を用いなければ行えない労働である。手は、全身の営みの先端として働くに過ぎない。書き終えたとき、全身に疲れが残るのはそのためだ。
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習慣が人間を作る、とはよく言われることだが、いつの間にか電車でスマホを見ることが習慣になった現代で、電車に乗ったら、数ページでも本を読むことを「新しい」習慣にしてはどうだろう。人生を変えるような言葉は、数ページにわたって出てくるよりも、たった一行、一語の場合が少なくないのだから。
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考えを整理してから書こうとする人が少ないない。しかし、それではあまり筆が進まないかもしれない。なぜなら「書くこと」こそ、考えを整える最適の方法だからだ。整理しないと書けない。そう感じているのは書かないからに過ぎない。「案ずるより産むが易し」とはこうときにも用いる言葉だと思う。
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「自衛」という言葉が本当に危険、かつ残酷なのは、世の中には、さまざまな理由で「自衛」できない人たちが多くいるからだ。そして、あることが切っ掛けで、自分や自分の大切な人たちもまた「自衛できない」人になる可能性は十分にある。ある時期私は、「自衛」できない家族ともに暮らした。
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もうかつて「火種」だった場所の営業時間を短縮しても感染は収まらない。老人ホームへの広がりは文字通り「市中感染」の合図だからだ。ホーム側は細心の注意を払っていたはずで、責められてはならない。けっして責められるようなことがあってはならない。原因は国の無策にある。
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第二次大戦中ファシズムと闘った人たちがいました。フランスではレジスタンス、イタリアでは「パルチザン」と呼ばれました。ミラノでパルチザンの列に加わった人たちが戦後、小さな書店を開きます。それが「コルシア書店」です。そこで働いていた日本人が須賀敦子です。須賀さんとはそういう人です。
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好きなものは、いつか嫌いになるかもしれない。しかし、愛するものは違う。真の愛は対義語を持たない。愛するとは、そのままを受け容れることである。自分を好きになる道を探せば迷うだろう。自分は、好きになる対象ではない。愛する対象にほかならないからだ。
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人が癒せない傷を、言葉を語れない動物たちが癒してくれるように、言葉では表現しきれないことを沈黙が伝えてくれることもあるだろう。言葉によって人は大きな慰めを得ることがある。だが、癒えるためには慰めとは異なるはたらきも必要だ。その何かは言葉よりも沈黙のほうに豊かにあるように思われる。
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うまく生きる人には知識が豊富にあり、それはそれでよいことなのだろう。だが半世紀ほどの人生で私は、生きるのが下手な人たちの姿にこそ語り得ない叡知を目撃し、打たれてきた。その人の生を肯定するのは知識よりも叡知である。叡知とは転んだ人間が再び顔を上げるそのときに経験する出来事でもある。
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この国では社会で「主役」になって活躍するように、という空気が様々な所に流れている。当たり前のことだが、「主役」は沢山いない。しかし、本当に大切なのはそんなことだろうか。古今東西の賢者たちは、社会の主役になるよりも、自らの人生において「主」となることを説いているのではあるまいか。
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「生きている価値」の有無を問うようなことは、もうやめようではないか。生きていること、それ自体が、かけがえのない価値なのである。存在している、そのことが稀有なる価値なのである。
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真剣に本を見続けたいと考えている人は「何を読むか」よりも先に「読むとは何か」を考えた方がよい。多く読んでいれば「読む」とは何かが分かってくる、そんな意見に惑わされてはいけない。多く本を読んでいると思われる人で「読む」とは何かをほとんど考えてこなかっただろう人に何人も出会ってきた。
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『本を読めなくなった人のための読書論』(亜紀書房)が重版になりました。本を読めなくなるには様々な理由があります。「多く」本を読む生活から「深く」読む日々への転換であることもあります。そして「読めない」と思うのは、「読みたい」と真に望んでいる人だけであることも忘れられがちです。
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いつからか人生の長期計画を立てなくなった。あまり意味がないことが分かったからだ。未来を見て仕事をするよりも、今に深く根を下ろす方がよいと思った。未来は文字通り未定だが、今どう生きるかは、まさに今、問われているからだ。今に応答しなくてはならない。考えてみれば素朴なことだった。
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今日は8月9日です。1945年の今日、長崎に原爆が投下されました。爆心地の浦上は、キリスト教徒とゆかりの深い場所です。長崎は殉教者の街でもあります。あの街に行くたびに、この世界を死者たちはどう見ているのかと思わざるを得ません。しかしそれでもなお、長崎は祈れと言っているようにも思います。
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自分らしい文章を書きたければ、まず、誰かの「まね」をしないことだ。もがきながら道なき道を進むように書くしかない。要領のよい文章を書くには別な方法がある。だが、そうした言葉はほかの人にも書けるのである。大切なことは自信がないまま、何かを畏れ、震えるように書くくらいでちょうどよい。
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世の中が激しく動くとき、世のことを考えるのも大切には違いない。しかし自分の生のありようを深く感じ直し、歩みを確かめるのは、いっそう重要なように思う。世のことは、自分以外の人も、あるいは誰かと共に考え得るが、自分の生に関することは、自分以上に真摯に向き合う人は世に存在しないからだ。
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当たり前のことだが、40代と50代は違う。50代になると、「老い」も「死」も概念ではなく、出来事になる。自分だけでなく、自分の周囲においても老いと死の経験を深めることになるのだ。それにもかからず、いつまでも若く、いつまでも死なないように生きるとすれば、よほどの楽天家か、愚か者だろう。
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哲学史について詳しくなっても、その人のなかで叡知が目覚めるとは限らないように、多くの詩集を読み、詩について詳しくなっても詩を書けるようになるとは限らない。詩とは、言葉によって言葉たりえないものを世に送り出そうとすることだから、詩を書いて「書けない」という経験を深めるほかない。
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心にある「おもい」はたいてい、自分には大切なことでも、他者には取るに足りないことのように感じられる。不思議なことだが、真剣に「書く」ことによって、その取るに足りないはずのことが、新しい意味を持つようになる。生まれてきた言葉が、自己との関係を強め、他者とのあいだを架橋するのである。
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人間がそうであるように、本との間にも出会いの「時」がある。それ以前でも、それ以後でもない、まさに出会うべき「時」がある。それは瞬間のこともあれば、数日、あるいは数ヶ月にわたることもある。しかし、その期間に書物と、ある深度の関係をつむげなければ機会は少し遠ざかるかもしれない。
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今日という日を深く感じるために、一冊の本が必要だとしたら、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳・新潮社)をお薦めしたいと思います。60頁の小さな本ですが、人生を変えるのに十分な重みをもっています。この本は彼女の遺著でもありました。ぜひ、お読みください。
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カントを読んでいたら、ルソーに流れ着いた。ルソーは、いわゆる「学校」なるものと、とにかく相性が悪かった。その人物が、教育をめぐって書いた『エミール』が今も読まれ続けている。ルソーの哲学は素朴で力強い。現代の言葉でいえば有用な「人材」ではなく、「人間」になれということなのだ。
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25年前の今日、遠藤周作が亡くなった。あの日私は、20人ほどの仲間と遠藤の親友でもあった井上洋治神父と一緒にいた。遠藤順子夫人から、作家が危篤であるとの電話があり、慌てて通りに出て、タクシーをつかまえ、神父を病院に送りだした。この作家を知らなかったら全く違う人生を生きていたと思う。