若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(いいね順)

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数年前は今の自分のありようなど予想もできなかった。そう感じている人は少なくないだろう。人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。だから、いかに生きるかだけを考えるだけでは十分ではない。どこからかやってくる人生の風をいつも感じていなくてはならない。
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文章を書くとは、己れを知る道程だから、書けば書くほど自らの非才を認識することになる。非才であるがゆえ、できることは限られていて、眼前に広がる一すじの道を歩くほかないことを知る。非才の自覚は、夢を失うことかもしれない。しかし、非才な者にも使命はあることを確かに知る経験でもある。
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8月6日は、作家で詩人でもあった原民喜にとっても運命の日でした。それまで彼は「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……(「遥かな旅」)という心持ちで生きていました。
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私たちは今、険しい山道を登っています。一人ではなく、皆で。その事を国や地方自治体にも忘れずにいてほしいのです。為政者が「自助」や「自己責任」をあまりに強調する事で、静寂のうちに世に分断が生まれている現状に気がついてほしいのです。そして、苦しんでいる人は、苦しいと言えないことにも。
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月に何冊読むかは読書の本質とは関係がない。そして、こうした論議はどこまでいっても表層的だ。ある人は同じ本を複数回読み、容易に読み進められない本と深く向き合うこともあるだろう。ただ、何かと併読しながらでよいので、詩と古典を読むのはよいと思う。早く読もうとする私たちを戒めてくれる。
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読書には大きく四通りの出会いがある。その本の存在を「知る」「手にする」「読む」そして「対話する」だ。最大ハードルは「読む」と「対話」の間にある。多くの学校では「読む」という地点が読書の終着点であるかのように語る。「対話」の第一歩はその本を鏡にして自己を見つめ直すところに始まる。
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今年出版された本で、今年を振り返るような習慣は、そろそろやめた方がよい。今年私が熟読し、強く動かされた本は皆、20年ほど前から書架にあるものだ。読書にはそういう一面がある。年齢を重ね、おのれの内なる衝動に忠実なる読書は、よりいっそうそうした傾向を強めると思う。
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この動画はとても大切。とくに管理職の人に見てほしい。リモートワークはいつでもサボれる、という人は、仕事の本質を見失っている。働く人の多くは、もっと責任感をもって、あるいは、強く持ちすぎるくらいもって仕事に臨んでいる。私たちはむしろ「休み方」を学ばねばならないのだ。 twitter.com/bbcnewsjapan/s…
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よく覚えておこう。移動と旅との区別もつかない発言を。この方は、科学には詳しいのかもしれない。しかし、人間とは何かをあまり考えてこなかったのかもしれない。 twitter.com/news24ntv/stat…
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本は「多く」読むのもよいが、「深く」読むのもよい。そして、「深く、多く」読むのがいちばん楽しい。だが、「多く」読んでも、必ずしも「深く」読めるとは限らない。だが、「深く」読める人は、波長の合う書き手を見つければ、時間と体力が許す限り、「多く」の本を読むようにもなれる。
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今の日本のありように苦しくなると、世界にはこんなリーダーもいるのだと思い直して何度も何度も見直している。弱い人により近く、より厚く手を差し伸べるリーダー。どこかオカシオ=コルテスと似た雰囲気がある、そう感じるのは私だけだろうか。 twitter.com/benmckenna/sta…
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真剣に生きようとすれば、生きづらくなる。生きずらいと感じているのは、決して悪いことではない。それだけのことを本当に理解するまで、半世紀も生きねばならないのか。だが、生きづらくても自分を見失うよりはずっといい。振り返ると幼稚園の頃から集団が苦手だった。ただ、独りも苦ではなかった。
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内村鑑三の『代表的日本人』で語られるリーダーにあるまじき性質は、①公私混同②弱者を見過ごすこと③待てないこと④ケチなこと、そして⑤正義とは何かを知らないことだ。大盤振る舞いする必要はない。むしろ質素であることは必要だ。しかし、物心両面におけるケチはだめだ。
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世の中には、目にしたものを「つまらない」の一言で片づける人がいる。その人にとってはそうなのだろう。それでよい。だがどうして、それを人に押し付けるのか。そして、なぜそうした人の声を真実として受け容れようとするのか。愛のない、辛辣であるだけの言葉に、どうして身をまかせようとするのか。
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哲学や思想の文章を読むのには、少しだけ修練が必要だ。だが、いつか、必ず読めるようになる。それはある単語について詳しくなるというよりも、その哲学世界を、あるイマージュで捉えられるようになり、それが自分のなかで非言語的なコトバとなり、言葉になっていく。
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生きるとは、一度きりの生涯で、何が自分にとって、かけがえがないのかを見出し本当の意味でいつくしむことだろう。それは、ほかの誰かが重んじているものではなく、自分の欲するものでもないかもしれない。ともあれ私たちは、しばしば、何を探すべきかも知らずに何かを探しているのではないだろうか。
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何かを学んでみたところで、すぐに世界を変えることはできない。しかし、学んだその日から「わたし」は少しずつ変わり始める。世界との関係も世界の姿も、他者との関係も他者の姿も変わってくる。真の意味で「学ぶ」とは「わたし」のなかでの起こる精神の革命を準備することにほかならない。
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ティク・ナット・ハンが亡くなった。来日を前に病に倒れ、拠点をベトナムに移してこの世のあとにした。ノーベル平和賞候補の経験もあるが、本当の平和は、人の内なる愛が咲かせる花であることを、生涯にわたって語り続けた。味わい深い本を幾つも残してくれている。彼の言葉を扉にして対話を続けたい。
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対象は何であっても「学ぶ」という営みにはどこかに「貴さ」を認識する道程がなくてはならない。「貴さ」を感じられないとき人は、その対象をひたすら利用する。言葉や色、宇宙でも、もちろん、人間においてもそうだ。「貴さ」を感じるとき、人は自分もまた「貴い」存在であることを知るのである。
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懸命になって誰かが作った「定規」に、自分を合わせようとしているうちに人生は、取り返しのつかない所へ運ばれていくのではないか。自分であろうとするのではなく、誰かに評価されようとして生きているのだから、自分を見失って、評価らしきものを得るのだろう。その評価が望んだものとは限らないが。
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大学とは「優れた人材」を輩出する場所だと信じて疑わない、そんな言説にふれるたびに、著しい違和感を覚える。その基準が、曖昧なだけでなく、時代の空気に迎合したものである場合が多いからだ。人は優れた者になるために生まれてきたのではない。その人自身になるためにこそ、存在しているのである。
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大学にいると、出来ないことがよくないことのように語られる。よりよく「できる」人が優秀だと信じられている。しかし、私が人生で経験したのは、まったく違う現実だ。何かが出来るのはよい。しかし出来ないことがあってよい。そこに、様々な発見や出会いや友情、愛情といった出来事が起こるからだ。
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私たちは、パソコンやスマホを前にすると、簡単に数時間の時間をそこに注ぐ。しかし、その数分の一でも、写真のデヴィッド・ボウイのように過ごすこともできるのだ。本は、わずかな部分を読むだけでもよい。特によい本ならよい本は分だけ、部分にふれるだけで重大な意味がある。 twitter.com/ElliottBlackwe…
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読書は、慣れてくると、ある程度早く読めるようになる。だがそれは、家庭用の自転車をある程度早くこぐことができるのに似て、あまり特別なことではない。むしろ読書の力量は、早く読めるものを、じっくり、ゆっくり亀が歩くように読むことができるか否かにかかっている。
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今日、私は、ある敬愛する人から、震えるような手紙を受け取った。「あなたとは、もっと多く語り合いたい。でも、言葉によってではないのです」。この一言で、これまで言葉をつむいできた意味が報われたように思えた。言葉で書くのは、言葉の彼方で分かり合いたいからなのだ。今も心が震えている。