若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(いいね順)

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仕事場ではしばしば「人を使う」という表現が用いられる。この言葉を口にする人はしばしば、自分は常に「使う」側であると思い込んでいるように映る。そして、そうした所では、あまり「良い仕事」が生まれない。言葉も同じだ。言葉に力を貸してもらう、という態度で向き合うとき意味の地平が新生する。
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本は、何を読むかが大切であるのは言うまでもないが、いつ読むのか、さらにいえば、いつ出会えるのかが、最も重要なのではないだろうか。そして、一たび出会ったものとの関係をどのように深めていくかに挑戦がある。多くの本を読むのもよい。しかし、生涯と共にするような一冊に出会えたらなおよい。
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考えた事を書くよりも「書く」事によって考えるのです。考えた事を書くとき、働いているのは頭(あたま)です。しかし、「書く」事よって考えるとき「頭」だけでなく手も胸も、心すらも動き始めます。誰もが頭だけでは見通せない出来事があるのを知っている。それならそう生きるのがよいと思います。
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厳しい時代ですから、生きているだけでも本当に大変なことです。どこでも不必要に比べあったり、傷付けあったりしなくてはならないんですから。だからせめて自分にだけは、今日もよくやったとねぎらいの言葉をかけるようにしましょう。そうあった方がよいのではなく、そうあらねばならないのですから。
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天才たちは別にして文学、哲学、そして宗教も、それらがその人の中で、かけがえがないものになるには、ある年月が必要なのかもしれない。若い頃はやはり、多く知りたいと思っていた。しかし年齢を重ねてくると、今の自分と本当につながる何かとの出会いを渇望している。知識ではなく叡知との邂逅を。
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どんな本を読むのかは重要だが、どんなによい本でも出会う時期が違うと深くつながることができない。読書には読書の道と呼びたくなるものがあって、出会うべき時に出会うべき本に出会う準備があるように思う。「本」というよりは、「言葉」との遭遇といった方がよいのかもしれないのだが。
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教皇フランシスコが教皇庁で行ったメッセージでハンナ・アーレントの『人間の条件』の一節を引用した。「人間は死なねばならない。だが、死ぬために生まれたのではない。(何かを)始めるために生まれたのだ」。こうした日がくるような気がしていた。romereports.com/en/2020/12/21/…
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毎年、いくつもの学校の入試で、拙文を取り上げていただくのだが、私は中学校のとき5段階で「2」をとったことがあり、大学受験では「国語」があるところはすべて落ちた。受かったのは小論文の学校だけだった。最近は中高の教科書にも取り上げてもらっている。人生何があるか分からないものである。
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日本で、今日のようにゴッホが愛される、きっかけを作った人たちのなかに白樺派の人たちがいる。なかでも重要な仕事をしたのが柳宗悦だった。雑誌『白樺』はいわゆる文学の雑誌に留まらない。宗教、哲学、芸術を包含する、高次の意味での新しい「文化」の土壌となった。その影響は再考されてよい。
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特定の神は信仰していない。特定の宗教とも関係がない。そんな人は多くいるのだろう。しかし、一度も祈ったことがない、という人は少ないのではないか。自分が、大切な人が試練にあるとき人は、何ものかとつながろうとする本能のようなものがあるのではないか。私がいう「祈り」とはそういうものだ。
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コロナ経験者の言葉、大事なことが書いてあった。「体調が悪い中、どうでもいいような連絡が会社から入った時に、今回は軽症で済んだものの、人生いつなにが起きてどうなるかわからない、なによりも自分を大事にする事が大切だと悟りました。」news.yahoo.co.jp/articles/ccb0d…
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「できる人」は、どこにでもいる。どの世界にも。しかし、「わたし」はここにしかいない。私しか「わたし」にはなれない。そして、私が生まれてきた意味が「わたし」になることであるなら、どちらが大切かは言うまでない。「できる人」でも自分を知らない人は少なくないように思う。
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政治家が、ある漢字を読めない。それはいっこうに構わない。誰にでも、思い込みや知らない言葉はある。だが、政治家であってなくても、人を馬鹿にしたような話し方は止めた方がよい。人には誰も、立場や地位とは関係なく、尊厳という守られねばならないものがある。
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家族全員が感染する、当然ながら、こうしたことは起こる。現在のように陽性が確認されても、自宅療養するほかなければ、毎日のように発生するだろう。人間はウィルスをコントロールできていない。そのことを認め、これからの選択を、もっと慎重に考えなくてはならない。⇒news.yahoo.co.jp/articles/dbcd2…
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売っているものは、私以外の人でも買うことができる。だが、この世には「わたし」だけが見つけられるものもある。誰かが探してくれるものは、他の人に任せればよい。「わたし」にしか分からない、「わたし」にしか見出せないものをこそを探さねばならない。それが生きる意味だからだ。
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誰かを愛しいと感じる。だが、年齢を重ねてくると、「人」だけでなく、今日という一日を愛しく感じる。「時」もまた「人」とは異なる姿をして「生きている」と強く思う。自分以外の誰かに慰められ、癒されることがあるように「時」にも癒されるのはそのためだろう。
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本を読むのは、多くの情報や知識を得るためであるよりも、深く考えられるようになるためだ。知が力であるように見えるのは幻想だ。知識だけではない。どんなものでも、単に多く得たところで仕方がない。それを思慮深く用いることができて、初めて生きた知恵になり、叡智になる。叡智こそが力なのだ。
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いつからだろう。一生懸命であるだけでは意味がない、というような言葉がまかり通るようになったのは。懸命に何かをすることが、格好悪いと思われるようになったのは。懸命に生きる者の姿は、本人が感じているよりもずっと美しい場合がある。格好の良さなどとは比べものにならない美が宿ることがある。
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親しい人が亡くなると、いつか自分も逝くのだと改めて思う。そしていつか、ではなく、どんな時期であれ自分が思っているよりも早く、必ず死ぬのだ。本当に大切な人たちとの時間を愛しみたい。自分だけで生きているのではない。人々と共に生きている。そんな素朴なことが人生の宝物のように感じられる。
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多く本を読む人が深く本と交わっているとは限らない。もちろん両方を実現している人はいる。しかし、それはその人に必要だからであって、誰もがそのまねをする必要はない。読書は、その人にあったかたちで、長く行われるのがよい。自分らしい本を選ぶのも大事だが、読み方もまた、自分らしくてよい。
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人間は材料ではない。唯一無二の「いのち」である。材料と同じだと考えなければ「人材」という言葉は出てこない。「優れた人材」もいるだろう。だが「人材」には常に代わりが存在する。「人材」は重用される。だがけっして愛されない。この問題は「いのち」を軽んじる今の日本と無関係ではないのだ。
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利己的で、いのちに鈍感な者たちが、「偉く」「強い」とされるような世の中は、どう考えてもおかしいと思う。
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優れているのは良いことなのかもしれない。しかしそれは比較、競争の世界の話でしかない。ある時期を境に私たちは、比較、競争とは別の世界があることを知る。その地平のどこかにずっと探してきて何ものかの存在も同時に予感するのではないだろうか。誰かと比べるのをやめること、そこに自由がある。
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自分は誰かよりも優れているというのは「勉強」の基準だろうが、「学び」の世界では常識が違う。「あの人は自分よりもある事で優れている」、そう自然に感じられるように学ぶのである。誰かよりも優れたままでいたいなら、ずっと競争していればよい。しかし、自分の人生はいつまでも始まらないままだ。
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恐怖の心情が人間から奪うのは、いつくしみであり情愛である。恐怖や動揺に心を乱されたくないなら、自分と他者と、この世界をいつくしむのがよい。人が何かを大切にするように、他の人にも大切なものがあることを噛みしめてみるのもよい。「強さ」で切り抜けるのではなく「弱さ」で支えあうのもよい。