「一期一振」写し いくつかの意味に解釈することができます。 ・吉光と同じく長寸のものは唯1振 ・生涯の最高傑作 ・吉光作の名物「一期一振」の写し この刀は寸法からして名物「一期一振」の焼身となる以前のオリジナルの刃紋であった頃を写したものだと思われます。
新刀の名工 堀川国広 「山姥切」 (引用) 寒山刀話 佐藤寒山先生:著(昭和48年)
画像は1枚目より順番に 1,山伏国広(重要文化財) 2,加藤国広(重要文化財) 3,布袋国広(重要美術品) 4,包丁国広 「国広会」が開催された大正15年(1926)の当時は、まだ重要文化財、重要美術品の制度が始まっていませんので全て無冠の状態です。 刀の力量だけのコンテストといえます。
大正15年(1926)、東京において「国広会」が開催され堀川国広の名刀が83振並べられました。 なかには、後に重要文化財や重要美術品の指定を受ける名品も多く含まれていました。 「国広会」では出品刀の人気投票が開催されましたが、第1位となったのはどの刀だと思いますか?
なぜ100cmを超えるようなマグロ包丁に「登録証」が不要で、 6cm以上の短刀から「登録証」が必要であるのか。 長さについては前述の通りに殺傷能力でありますが、 刃物として製造された目的が違います。 刀剣類である日本刀は武器として製造されているのですね。
(左)「日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」 (1997) (右)「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」(2018) どちらにも「三日月」がデザインされています。
太刀 国永(五条) 土屋押形所載 「国」の字形が粟田口風でありながら、 「永」の第1画目が「↓」となる中間的な特徴ある銘字、この6振目の太刀のみな。 土屋押形に所載のものも銘字の特徴が一致しています。
「鶴丸国永」が伊達家より明治天皇に献上される伊達家における記録 明治34年7月7日 明治天皇の仙台行幸と陸軍特別大演習の際に、献上する品物を相談する。
山姥切長義(本作長義)の茎には堀川国広の切付銘が長銘に切られています。 改めて見直してみると、いくつか気付いた点があるのでツイートしてみたいと思います。 ・「本作」の読みと意味 ・銘文のうち平地と鎬地(棒樋)での重要度の違い ・堀川国広が強く伝えたいメッセージ
・「本作」の読みと意味 「本作長義~」の「本作」の部分について ○「本作」(ほんさく)、この作(刀)という意味です。 →この刀は長義です。 ○「本作」(もとのさく)、または(もとさく) もと(元)の作(刀)とも解釈できます。 →元の刀は長義です。
「本作」と「本銘」では意味が大きく違います。 本作(もとの作) →元は長義の作(刀)であった(と伝えられている)。 (しかし、既に国広が銘を切った時点で磨上げられており)長義の銘が無い。 本銘(もとの銘) →元は銘があったが現在は大磨上となり長義の銘が無い。
堀川国広がなぜ「本銘長義」または「古銘長義」と切らずにわざわざ「本作長義」したのか。 →山姥切長義(本作長義)は国広が銘を切った天正14年の時点で既に大磨上無銘となっており長義の銘を失っていたこと。 そして無銘ながら長船長義の作であると伝わっていることを茎に刻んだのだと解されます。
(左)山姥切国広 (右)山姥切長義 山姥切長義には棒樋が茎尻まで掻き通しとなっていますが、これも国広が銘を切った時点には既にあったと思われます。 茎尻の棒樋の終筆がわずかに丸みを帯びています。これは古刀期の棒樋だと思われます。 山姥切国広は棒樋を掻き切っていてシャープな印象です。
国広は(太刀を除いて)あまり目釘孔の上に銘字を切りません。 (赤線)の第1目釘孔の間際まで 表は「本作」 裏は「天正」 と切っています。 これにより、第1目釘孔は国広が切銘した時点では既にあったということと。 そして「山姥切長義」の当時の打刀の目釘孔の位置ということを物語っています。
(左)山姥切国広 (右)山姥切長義 堀川国広が双方とも銘字を切っています。 天正18年の2月と5月、わずか3ヶ月しか期間に差はありませんが、 銘字は長義は流暢で、国広の方は固い印象です。 これは茎部分の鉄の硬軟の差だと思われます。 長義が軟らかく、国広が固いので違いがでているのでしょう。
切った銘字を例えるとすれば、 茎部分の鉄が硬い「山姥切国広」は 硬い鉛筆(Hくらい)やシャープペンシル 茎部分の鉄が軟らかい「山姥切長義」は 毛筆や、滑りの良い万年筆やサインペン でしょうか。
「蛍丸」が昭和20年(1945)に行方不明になってしまった時系列 12月4日 阿蘇神社より宮地警察署へ提出 (↓16日後) 21日(または22日) 宮地警察署より熊本進駐軍駐屯地へ、倉庫で保管 (↓2~3日間) 22~23日 倉庫で目撃されている (↓提出より5日後) 26日 行方不明になる。刀袋と箱のみ残る
「蛍丸」 資料-1 熊本日日新聞 昭和35年3月13日 夕刊 刀が宮地署に供出されたころ同署の係であった藤原継雄さんは当時のもようについて「蛍丸」も含め全部の刀を供出するよう何度も進駐軍の命令が県を通してあったので、阿蘇神社にも連絡、供出してもらった。
「蛍丸」に一縷の望みがあるとするならば、 昭和20年12月21日に熊本進駐軍駐屯地へ移された際に、旧国宝であったので、他の一般の刀とは分かれて倉庫に保管されていたことです。 持ち去った人物も「蛍丸」の価値を認識していたと推測されます。 やはり何処かで現存しているのではないでしょうか。
「山姥切国広」 九州日向住国広作 天正十八年庚寅貳月吉日平顕長 2月を「二」ではなく旧字体で「貳」と切っています。 堀川国広が月の数字を旧字体としたのは「山姥切国広」のみのようです。 推測されることは ・改竄の防止。(日付の重要度が高い) ・実際に2月であった
刀剣の保存に適した除湿剤を探していましたが、やっと理想的なものが見つかりました。 竹活性炭で湿度55%付近に調湿されます。 (美術館で使用される刀剣に適したアートソーブも55%のもの) 化学物質ではなく竹炭なので刀剣への影響もないでしょう。
「大倶利伽羅」は生ぶ孔が残っていないことや彫物の位置からしても、かなり大きく磨上げられています。 現状で2尺2寸3分(67.6cm)ですので、元来の長さは2尺8寸(約84.8cm)~2尺9寸(約87.9cm)くらいだと思われます。 茎長さ5寸7分(17.3cm)というのは、刀身とのバランス的にやや短めな印象を受けます
「豊前江」の画像や押形は少ないのですが。 「相州伝名作集」という大型本には「桑名江」と「豊前江」が並んで掲載されてたのですね。私も知りませんでした。
拙僧の愚息は「かずき」という名前なのですが、クラスにもう1名「かずきくん」がいるそうで。 紛らわしいから各々の名字の頭文字を「かずき」の前につけて「みかずき」と「さかずき」と呼ばれてるんだそうです。 かっけーな、オイ
ちな、うちのは「みかずき」の方です。