「同性愛者のキャラは同性愛者が演じるべき」は「じゃあ異性愛者を同性愛者や両性愛者、無性愛者が演じるのも《同じロジックで》アウトだよね」になって、かえってマイノリティのチャンスを奪う事になるし「仕事を得るためのアウティング圧力」という問題も引き起こさないか?
例えば青森県。 全県で映画館が6軒しかなくて、なおかつ都市間はよくて一時間に一本のJRで一時間なんだよ。 八戸でしか公開してない映画をつがる市の高校生が見たかったら、下手したら泊まりがけだ。 片道三時間なんだから。 しかもこれは周辺町村よりは「マシ」なケース。
「権力は正しい」でも「反権力でなければならない」でもない。 権力の有用性と危険性を踏まえた上での《契約》。 これは、主人公が権力機構内に属する『シン・ゴジ』や『シン・マン』とは明確に変えている部分。
作品が「ポリコレでつまらなくなる」のなら、それはポリコレの意義や価値や副作用についてちゃんと考えた上で取り入れて使いこなすんじゃなく「ノルマとして仕方なく、外から要求される基準をクリアすればいい」とやっちゃうからではないか。
原典の『ライダー』は怪事件で殺人や行方不明が頻発し、藤兵衛たちがショッカーの存在を訴えても警察は一切相手にしないというかたちで「公権力の存在」を排除してたけど、さすがに当時の子供ごころにも無理があるとは思っていたなぁ。
ライダーと警察が協力関係になった『クウガ』の、実は画期的な点ってグロンギが「隠れてない」事なんだよな。 あからさまに市民を脅かし、情報を隠蔽する意味がないからこそのプロット。 twitter.com/kgxvz7851/stat…
自作でも触れたけど「大切な人を殺されたら、犯人の死刑を望むはずだ。残された人の悲しみを思えば厳罰に処すべきだ」という思想だと「通り魔が殺したのがたまたま何の益もない皆に迷惑な嫌われ者だったら免罪・減刑・表彰すべきか」という話になるんじゃないか。
オタクに親和的でなくても「我が子の、個人としての選択を尊重する」人だっている。 それこそが「人権意識の高さ」なんじゃないか?
『BAD CGI SHARK』みたいに「雑な因習村ホラーを濫作していたPDが、自作そっくりの因習村に迷いこむ」なんてのもアリかも知れない。 監督や脚本家に押しつけた無理矢理で矛盾だらけの因習に苦しめられる。
これ「相性が悪い、難しい」であって不可能という話ではない。 ちゃんとこの難点を突破した成功例は様々なアプローチをしてる。 twitter.com/kazakura_22/st…
最終的に『水魔』が楽しめたか否かでいうと充分楽しめたけど、作劇として「フェアか」というとアンフェアという判定にならざるを得ないところはある。 パーメットってそもそも何で、何ができてできないのかというのを説明しないまま、最後は事態の収拾をソレに丸投げしてるから。
それこそリアルタイムでは顧みられず、あるいは俗悪なものとして批判された表現が、後代に「多くの人の心を動かして高い価値を得た」例だってあるよな。 売れなくて困窮の果てに自殺した画家の作品が、今では人類の至宝扱いとか。
その結果「とりあえず人間でさえあればほぼ誰でも構わんと誤認されてる仕事、自動化機械化が難しくてコストに見合わない仕事」において、人間のダンピングがひたすら進行する。
→ 分類コードとかそれっぽいタームを覚えるだけで、自分なりに考えて分類分解する習慣がないと、あっという間に流されて思考が雑になるぞ、というお話。
→ けどそれが「ジャンルのお約束にツッコませないための言い訳」(マイナスの軽減、巧くいって0点)ではなく「その設定だからこその魅力」(プラスの獲得)に持っていくのは難しいのだ。 →
富野監督の作家性であり魅力というのは「自分が抱えている矛盾をごまかしたり棚上げしたりせず、矛盾として作品に出力する」あたりじゃないかなぁ。 ギレン的な「よし、減らそう」は肯定してはいけないと思いつつ「人間が増えすぎたのが諸悪の根源」だとは考えているとか。
以前にも言及したけど、藤岡弘の事故というのは『仮面ライダー』一作に留まらない。歴史のドミノ倒しというかバタフライエフェクトの大きな分岐点だったんだよなぁ。 twitter.com/kasai_sinya/st…
ホント、SFだのガンダムだのの「うるさがたマニア」に必要なのは「つまらない、出来の悪い、肌に合わない××」を「あんなの××じゃない」ではなく「駄目な××」として直視し、受容する事だよなぁ。 サメ映画やゾンビ映画のマニアを見習ってほしい。
ちょっとズレるけど。「キャラ設定に《逆説の接続詞》が3回以上出てくるようなら再考せよ」というのもあるよな。 twitter.com/ichiro_sakaki/…
#ファンタジー・SF世界観構築ノウハウ 重要なところをひとつ忘れてた。 「世界に、ちゃんとトラブル源を仕込む」 完全に安定していて変化がおきない世界だと、キャラはやる事がない。 私はこれを「エンジンを仕込む」とか「坂道に置く」と呼んでるけど。
何かの作品で「安全を最優先している>操作した通りに反応する>壊れにくい」と翻訳すれば、機械の設計の基本として正しいと解説されていたのは感心したなぁ。 twitter.com/abogard_ausfB/…
ものすごく即物的というか身も蓋もない話として「否定し、禁じられると、それによって権威を持つ」という側面もある。 無駄に持ち上げられているセブン12話とか、「教科書が教えない」系の売り文句とか。 「上映中止、出版停止」というのは実は利敵行為なんだよ。
私自身も含めて多くの人は意外なほど「自分の体験や直接の知り合い」の外の実態や生活に関心も理解もないし、長期的な展望も持てない。 対立構造で煽られるとあっというまにエコーチェンバーに閉じ込められて法も人権も忘れる。
マルチバースって濫用すると「物語の一回性、キャラの選択の重さ」という部分の価値を下げるリスクを内包してるんだよな。 で、この部分というのは「ゲームに対する、映画・小説・マンガ」のアドバンテージのひとつである。 (マルチバースはとにかくダメという意味ではない。念のため)
→ それこそ特撮本丸の例だけど、『クウガ』では「グロンギがひとりずつしか行動しない理由」が作品の柱のひとつであり、作品のカラーを過去の同ジャンルから一変させる源になっている。