葛西伸哉 ラノベ作家(@kasai_sinya)さんの人気ツイート(いいね順)

ジョジョの受容史。 黄金時代のジャンプで根強い人気があった→多くの影響を残した→影響があまりに普及しすぎ&作品の長期化で「今さら人気を云々する必要がない、空気や水やガンダム」のレベルになった→その後、アニメ化されて「水だと思ってた人」が初めて原液に触れた。 こういう事かも。
『翔んで埼玉』。 「権力者は被差別者同士を憎み合わせる事で構造を維持する」「権力者に取り入って《奴隷頭》の地位をせしめる奴もいる」「被差別者もまた、自分たちより《下》を平然と差別する」を描いてるから、実は『Black Sun』よりよっぽどシビアじゃないだろうか。
基本的な話として ・変身にポーズとかけ声が必要な理由 ・敵がひとりずつ攻めてくる理由 とか、ある程度力がある創作者なら「設定」の5個や6個は難なくひねり出せる。 →
あれ、「偽装都民」を誰も見破れず崇敬するというあたりが秀逸なんだよな。 『Black Sun』にもそういう存在が必要だったのかも知れん。 怪人である事を隠して要職に就いてる奴。
「異性同士で結婚して、子供を産んで、対立相克のない家庭の中で親に従う良い子を育てるのが正しい」という《素朴で自然》な感情が、カルト二世も毒親の子も性的少数者も不妊治療者も非モテも、みんなを苦しめる落とし穴なのだ。
大学生の頃にファンタジアやスニーカーの創刊に立ち会った「狭義のラノベ第一世代」であるワシが55歳である。 「狭義のラノベ」ですら30数年の歴史があるのに「最近ラノベを知った人」はその事実を認識できない。
「自然界、野生ではあり得ない」と言われがちなもの。 ・同性愛 ・同族殺し、子殺し ・遊びのための殺し ・負傷者や弱者の保護 twitter.com/Yuichiro_Junio…
これも何度か言ってるが『約束のネバーランド』が始まった時のジャンプ、同期の新連載も含めて3本が「大人社会はクソであり子供を支配抑圧搾取してるから立ち向かえ」だったんだよな。 twitter.com/ShinHori1/stat…
90年代のヒット漫画を今からアニメ化。 確かに有効なアプローチではあるんだが「現代物」が「時代劇」になってしまう齟齬をどうするかという問題はあるんだよな。 概ね今に近いテクノロジーが普及していながら「携帯電話」だけが欠けている(=日常の習慣や規範が全然違う)という時代。
講義で言ってた話。 「いわゆる萌え属性の多くは、既にある概念に名前がついただけである。イザナミ、娘道成寺、八百屋お七は日本3大ヤンデレだ」 → twitter.com/utakuochi/stat…
>>「主人公はやりたい事を早く提示しろ」 主人公に〈できる事〉は山ほど提示されるけど〈やりたい事〉〈やらねばならない事〉が提示されないまま目先の課題の解決だけでサクサク進むタイプの話に興味が持てないのは、多分こういう話かな。 twitter.com/chogo2009/stat…
『リコリコ』は一貫して「ディストピアをどう覆すか」じゃなく「ディストピアでどう生きるか」の物語なんだよな。 軸はブレてないし、それはそれでひとつの現代的な切り口ではある。 twitter.com/AkatsukiUNI/st…
そして、その『翔んで埼玉』もまた「群馬あたりを人外魔境扱いするのがギャグ」という東京中心思想についてどの程度自覚的なのか、という話にもなる。
この話、一般化すれば ・自転車操業で短期目標の達成を繰り返しても、最高で現状維持。長期的には衰退必至。 ・賢しげな「選択と集中」はバカの発想。 という事になるか。
円谷が、予算が厳しい中で巨大怪獣戦をやろうとした工夫。 ・コンピューターワールドで、狭かったり建物が抽象的でもOKのグリッドマン ・基本、荒野ばっかりの大怪獣バトル ・メタフィールドにしたネクサス で、グリッドマンはちゃんと「ビルを壊せる」んだよなぁ。
東京圏、大阪圏、中京圏あたりとその他の地方の差として、前者に属する人が意識しがたいのは「中高生が自前の移動力でリーチできる領域の差」で、例えば千葉や埼玉の「田舎」と青森や秋田の町村部では「鉄道で気軽に行ける博物館やコンサートホール、スタジアム」が圧倒的に違う。
ファンタジー世界で料理を出すメリット。 実は「フィクション度」の明示というのも大きい。 駆け出し冒険者が街で食ってるのが麦粥なのか牛丼なのかで「ああ、そういう世界」という理解が全く変わる。
野生や自然に対して、人間的なイメージをなすりつけて「厳しい」というのも「優しい」というのも、恐らくはどちらも間違っている。
たまたま当時子供だったから『マジンガーZ』を見て好きになったオレよりも、スパロボで興味を持ったから今から『マジンガーZ』を配信で見る若者の方が、意志を持ってわざわざ能動的に作品に触れているんだよな。
これは特異な少数例だろうけど、65年生まれのリアルタイム子供として少年ライダー隊に感じた不愉快さは子供騙し以上に「田舎者の疎外感」なんだよなぁ。 自分はどうあっても出演・参加できないのだという壁の常態化。
あと、もちろん「親が賛同している。誇りに思っている」ケースだってある。 「世の親というものは、皆わたし(たち)と価値観を共有しているはず」という傲慢な油断。
全部この路線にしたら当面の目標達成はできてもジリ貧なので《ちょっと~》は案牌として一定数は回す。しかし同時にそうでない路線にも力を入れる。1巻打ち切りのリスクはあるが、ふた桁巻アニメ化に育つ可能性もある。
ティラノが負傷した群れの仲間をケアして生き残らせる事。 ゴリラやライオンが子殺しする事。 どっちもただの「適応的な行動」なんだよな。
私が「作品に魂がこもってない」だの「ロボットアニメの魂」だのという言い方に否定的なのは『第三者に測定できない、客観的判定が不可能な要素によって、相手を無条件かつ絶対的に否定できる』道だからである。 「有色人種には魂がない」「女性には魂がない」
万全円満のハッピーエンドじゃなくて ・世の中の問題は完全解決じゃないけど、ちょっとはマシな方向に向かってそう ・主なキャラはそれぞれ責任を取ったり重圧から逃れたりして幸せに暮らしてる というのは、現実にも通じる問題を扱ったエンタメとしては誠実な落としどころじゃないかな。