「最大多数の最大幸福」という一見わかりやすいテーゼは「じゃあ邪魔になる少数の弱者は切り捨てたりパブリックエネミーとして憎まれ役を押しつけたりしましょう」と直結しちゃうのよな。
厳しい言い方ではあるが、日頃から保守主義の立場に立っている人が「親に顔向け、我が子に恥ずかしくないのか」型の批判をするのは、賛同はしないけど一貫性の点で「信用」はできる。 リベラルだの人権だのを唱える人がこれを主張したら、信頼どころか対話可能性さえ怪しいという評価になる。
「こまけえ事はいいんだよ!」じゃねえよ。 こっちは「こまけえ事がいいんだよ!」なんだよ。 そっちはそっちで勝手にやってくれ。こっちは別にそっちの在り方を否定や批判してる訳じゃねえ。
「きっとライダーが来てくれる」と信じたから諦めずに5分10分生き延びた子供と「ライダーのようになりたい」と思って道を選んだ消防士が災害の現場で出会う。 《ライダーのおかげでひとつの命が救われた》事は誰も知らない。当事者同士でさえ。
「富野監督の宇宙世紀のみが正史!」と息巻いても、その先に「1作目の完璧な大団円を踏みにじって商業的要請に屈したZ以後などクソ」とか「TV版と劇場三部作はパラレル?」とか「Zや新訳で登場したMSVや0083要素はどうする」とか「本質が最も出てるのは小説版」とかの泥沼が。
日本の戦隊は「商品を売るため一年単位で作品全体をリセット」が定着しているのに対し、それを輸入したPRは「スタイルはモデルチェンジしたけどキャラは引退せず継続」というのが、まさしく顕著な差だよなぁ。 日本はヒーローの退場がシステム化されている。 twitter.com/puchiba52/stat…
「万全じゃないから無意味」ではなく「ほんの少しでも何かよい作用があったんだ」を誇り、信じ、喜び、愛せるのは、多分素晴らしい事なんだ。
→ 現実には「他者の権利や尊厳を侵害する事でしか達成できない欲望・願望は無制限には認められない」という線は引けると思うのだけど、それさえ単純ではない。
「悪を懲らしめ、問題を解決した後は必ず立ち去ってくれる。その後の自分たちの日常生活には関係なくなってくれる」という点で《完璧なヒーロー》像の典型であるのが水戸黄門。
「世界が怪獣に脅かされているんだけど、それを知って立ち向かっているのは思春期の少年少女だけ」というのはまさしく『SSSS』が拾って大切にしてる部分じゃないかなぁ。 twitter.com/ututut/status/…
原典のショッカーは「自分も意志に反して改造され、一員にされてしまうかも知れない」ものだとしたら、シン・ショッカーは「自分も、自らの意志で参加したくなってしまうかも知れない」もの。 世界に絶望や悲しみがある限り、決して消えない《個人の過ち》を増幅する装置。
この期に及んで「いわゆる左派」がふがいない……というよりは共産陣営の崩壊という「対抗場の喪失」が資本主義を傲慢で無慈悲な方向に進化させちゃったんだろうな。 安易な自己責任論がまかり通って、労働者の権利と尊厳を守る圧力が小さすぎる。
井上敏樹は『ターボレンジャー』以来「本来そうではない人がヒーローに変身する」というネタが大好きで、それはヒーローの資格を問うてるんだけど、思えば初メインの『ジェット』が「本来のヒーローと手違い4人」なんだよな。
これ、最初の『ゴジラ』が戦争・核の恐怖をキャラクターに託したものだったのに「怪獣」というカテゴリが定型化したせいで忘れられてたのを、現代的に翻訳したとも言える。 twitter.com/BATI_NIGHTCAP/…
5年も前の『ルパパト』『プリチャン』など、未就学児も見る番組で「自立した格好いい女性のイメージに縛られずに自分らしく生きていい」を当たり前に描いているのに、今さら「仮面ライダーやサッカーが好きだから心の性は男子寄りですね」まで《後退》させようとしないでほしい。
宗教アニメも何本か見たけど、基本的に「仇役を魅力的に描こうとしない」んだよな。 教義の上では全否定されるべき存在だから。 ところがその結果、期せずして人間味が出て葛藤がない主人公側よりも魅力的になったりする。
この辺、何度か言ってるけど「主人公という概念」を上手く切り分けるとわかりやすいのよね。 『ゴルゴ13』において、実は「ドラマを背負った主人公」は依頼人やターゲットであって、ゴルゴ自身は「物語世界での影響力最大の主人公」。 twitter.com/ichiro_sakaki/…
元々死を覚悟して行うテロに対して厳罰化は一切効果がないし、抑制には逆効果ですらあるのよな。 テロを防ぐ第一の手段は「テロを起こす必要がない対話の回路」を結ぶ事。
『電光超人グリッドマン』の当時の商業的評価。 「大成功」でないのはもちろんだが「爆死」とかでもないよな。 玩具は充分売れたし、続編案も持ち上がった。ただし実現には至らず、雑誌企画として続いた。 二値で判断してはいかん。
「ものがたり」は千人を救うひとりを生み出すのは難しいだろうけど「ひとりを救う千人」は生み出せるし、多分生み出している。
『メガトン級ムサシ』でも感じたけど「型・定番を適切に用いる事による高速高密度のドラマ」というやり口。『水星の魔女』は更に巧い。 いわゆる「凝った事をやりたがるアニメ」にありがちな「設定説明に終始して、アクションも人間関係の変化もない」みたいな回がない。
何度か言ってるけどわかりあえる希望を描いた『ガンダム』の続編が「NT能力が高い同士が、お前は絶対許せんので殺すしかないと理解する」『Zガンダム』なんだよなぁ。 twitter.com/JULY_MIRROR/st…
#タローマン を本当に昔の番組だと思った人がいるという話。実のところ笑って済ませていい問題じゃないのよな。 どんなジャンルについても「わかってる人」にとっては常識以前の文脈、知識を共有していない人がいて、そういう人もコンテンツが届いてしまう訳だし。
だから「現実世界の問題について啓発する表現」と「娯楽フィクション」は別というのは(男女問わず)はっきり訴えていかなきゃならんのよ。 少女漫画も美少女漫画もBLも「現実の性愛での振る舞いを教える教科書」じゃない。 twitter.com/miruna/status/…
実はとてつもなく画期的なのは「由来がなくてルールだけがある」事じゃないかな。 アレ以前の《超能力》は既存の(疑似)科学やオカルトや伝説などを説得力の箔づけにしていた。時には神話を自作したり(『風小次』の聖剣とか)。 スタンドには何もない。 twitter.com/shin_akagi/sta…