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また、上映館であるヒューマントラストシネマは「なぜ上映するのか」、上映中止を決めたケイズシネマも「なぜ中止したのか」を説明してほしい。もっとも重要な場面で理念やことばを堂々と発信できない者は、文化の担い手としての資質を疑われることになる。
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しかも彼らは、それがただの手続きでしかないことは重々承知しているのである。要は、手続きを(彼らの思い描く模範に沿ったかたちで)どれだけ的確に、スマートにこなしたかを判定しているにすぎない。こういう図式は、この件にかぎらず、現在さまざまな場所で頻繁にみられるものである。
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石原慎太郎にしても麻生太郎にしても、「男の美学」とやらに酔いしれているダンディ気取りは、はたから見ているとじつに滑稽である。ほんとうにダンディが板についている人間は、必ずどこかに「含羞」があるものだが、このひとたちにはいっさいそれが感じられない。
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通販生活の意見広告は特定の政党への投票を呼びかける内容ではなく、原発や改憲について「公平」な議論、意思表示を可能とする仕組みをつくるべきと訴えている。それに対してファッション誌を利用した自民党の宣伝はどうか。一方は大手メディアから封殺され、一方は大出版社と広告代理店のお墨付きだ。
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「弱者を切り捨てるような政策」という点でも「党議拘束でガチガチで、自由な空気がない」という点でも現在の日本共産党より自民党のほうがはるかに暴力的だと思う。
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ここで持ち出されるべきは「推定無罪」(告発の詳細に触れず、このことばを出すことじたい大いに問題があると思いますが)や「作品と人格の区別」等の議論ではなく、キム・ギドクによって傷を負わされた被害者がいること、そして映画を上映することがその傷をさらに深めてしまう危険性ではないですか。
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こうした状況下で、被害者の傷をさらに深めてしまうかもしれない危険を冒してまでも、保障されなければならない「自由な視座」とはいったい何でしょうか。また、「キム・ギドクとはいったい何者だったのか」を考える機会をつくりたい、という企画意図にはとくに異論はありませんが、であるならば、
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作品の評価と政治性の評価は必ずしも一致するとはかぎらないが、その二つを明確に峻別できるとする考え方は、僕には映画のみならず、あらゆる芸術を軽んじているように思えてならない。さらに踏み込めば、社会的存在としての「私」を埒外に置いておこなわれる映画評論とやらも僕は信用しない。
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アップリンクに「行くな」と言う人間はそこで働いているひとや上映されている映画の関係者を蔑ろにしている、という主旨のツイートを目にした。僕は他人に「行くな」とは言わないが、じぶんでは行く気にならないし、ハラスメントの件を知らずに足を運んでいるひとがいたら事実を知ってほしいとは思う。
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薬物使用者に対して「どうしてそんなものをつかうのか、理解できない」と言ったり、子どもを虐待する母親に対して「どうしてたいせつな子どもにこんなひどいことをするのか、理解できない」と言ったりする気持ちはわからなくもないが、少なくともメディアは「理解できない」で終わらせてはだめだろう。
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あの場で若一さんの批判に応答しなかった(できなかった)諸氏は、批判の趣旨を理解する以前に(あるいは内心おかしいと感じたかもしれないが)、TV番組を滞りなく進行する、という暗黙の「空気」に殉じたのだろう。ある特定の場の「空気」に同調することは時にそれ以上のなにかを失うことにつながる。
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「思う」ことと「発信する」ことのあいだにあってしかるべき公共意識を、著名人でさえもちあわせていない現実。
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こうしてみごとに「日本の恥」をさらすかたちになりましたとさ。 twitter.com/nhk_news/statu…
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TOHOシネマズが独禁法違反容疑で調査を受けていることが報道されました。こうした大手の動向とミニシアターの現状は一見無関係に思われますが、私的独占の問題とミニシアターの疲弊・労働問題は映画産業構造の根っこの部分でつながっています。以下の記事でも少し触れました。 bunshun.jp/articles/-/483…
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才谷氏の取材でまず耳を疑ったのは、記事中にもある「『退職に関する事項について、今後一切口外しないことを確認し、誹謗中傷にあたるような言動はしないこと』という主旨の合意書」にかんして、今回取材に応じてくださった元スタッフの方々が「約束をやぶった」と主張されたことです。
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もしいま淀川長治が生きていたら、その「事実誤認」を糾弾されたかもしれない。伝道師的なイメージが先行するあまり誤解されがちだが、淀川さんの批評はかなりの頻度で実際の映画と食い違っている。間違いだらけと言ってもよい。しかし急いで付け加えればそれは間違いでありながら間違いではないのだ。
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企画上映とは、ただ漫然と映画を垂れ流すのではなく、その作品を上映する意図・意義を問われる性質のものだ。撮影現場においても性犯罪行為に及んでいたことが指摘されている人物の作品を上映する意図・意義とは何か、今回の企画配給を手がけたクレストインターナショナルは明確に説明する責任がある。
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キム・ギドクの作品の多くは映像ソフトで鑑賞可能な状況にあります(ここで「スクリーンで観る映画とソフトで観る映画は違う」云々という議論をすることがナンセンスであることは言うまでもありません)。作品の評価が「見た人に委ねられる」として、日本においてはその手段は十分存在するわけです。
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こういう記事が出るたびに思うのは、いい大人が雁首そろえて誰も「これは差別です。掲載したら大変なことになります」と言わなかったのか、ということなのだが、もし一人もそういう声を上げなかったのならその会社は終わっているし、誰かが声を上げたのに取り合わなかったとしたら尚終わっている。
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<誰何して答へない者を鮮人と認め、ヘンな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りが無くても骨相が変つて居ると鮮人と認め(略)手にビール瓶か箱を持つて居ると毒薬か爆弾を携帯する鮮人だらうとして糺問精査するなど一時は全く気狂沙汰>(宮武外骨『震災画報』)
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相島さんのこのツイートに対して「誘導」と非難しているひとがいるが、仮に現在の政権党が旧民主党であろうと共産党であろうと現状に不満があれば野党に投票するのがあたりまえで、つまり選挙の基本に言及されているにすぎない。 twitter.com/aijima_kazuyuk…
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内田魯庵は、自警団の蛮行を擁護しようとする風潮があることや軍憲警察の非道を糾弾し、「外国人と云へば兎角に疎隔し或は軽侮して何かにつけては毛唐呼ばはりする排他的鎖国精神を愛国と心得る日本人の偏狭なる島国根性を顧みて自ら恥かしく無いだろう乎」(「太陽」1923年11月号)と書いている。
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毎日新聞の記事によれば、「金銭の受け取り」について男性が証言したのは「別のデモ」であり、取材の時点では五輪反対デモには「参加する意向」があっただけで、事後の確認でも「男性は五輪反対デモに参加したかどうか記憶があいまいだった」とのこと。 mainichi.jp/articles/20220…
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ハラスメントの被害者に対して、先の合意書のような代物を突きつけ、同意を迫ることじたいが紛れもないハラスメントである、という認識が決定的に欠けているばかりか、「約束をやぶった向こうがわるい」とでも言いたげな態度には、心底愕然とさせられました。