佐野亨 Toru Sano(@torusano1124)さんの人気ツイート(新しい順)

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映画評論家についての意見が飛び交うなか、相変わらず「淀川長治さんならどれだけダメだと思った映画でもいいところを探して褒める」と言うひとがいるけれど、それこそ現在の状況に照らしてみると、淀川さんなんて何度「炎上」させられていたかわからないと思う。 twitter.com/torusano1124/s…
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ダウンタウンとのコントでの共演や音楽プロデュースについて書いている追悼記事をいくつか見かけたが、天童荒太との対談集『少年とアフリカ』を読むと、坂本龍一はある時期以降、ダウンタウンに(より正確には、ダウンタウンが受容される時代の空気に)はっきり批判的になっている。
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「インタビュー内では『日本人が朝鮮人を殺したのは事実』と言っています。これに対して都ではこの歴史認識について言及していません」「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念があります」――都知事や都の人権部が平然と歴史修正をしているという「事実」。 buzzfeed.com/jp/kotahatachi…
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『十二人の怒れる男』のこの場面はほんとうに素晴らしく、差別主義者に対して「無言で席を立つ」という行動は一見「無視」ととられるかもしれないが、席に座っていた者が立ち上がることは明確な「意思表示」なのである(E・G・マーシャルはことばで抗議する)。「議論を拒否する」ことで表される意思。
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どんな相手とでも「とにかく議論することがたいせつだ」という主張はよく見聞きするが、そういうひとには『十二人の怒れる男』のこの場面の意味をよくよく考えてほしいと思う。 twitter.com/torusano1124/s…
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以前に「いまこそ金曜ロードショーで放映してほしい」とツイートした『アダムス・ファミリー2』が7日夜の同番組で放映される。暴虐の歴史、人種的ステレオタイプ、吐き気がするほどの善意に満ちた無自覚な全体主義への抵抗を描いた1990年代最高のアメリカ映画のひとつ。 twitter.com/torusano1124/s…
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香川照之氏の件について、「正義を装ったリンチ」「これ以上やって誰が救われるのか」というツイートを見たが、当初のこの件の扱われ方が「容赦が無い」どころか報じられた加害行為に比して軽すぎたために批判を呼んだのであり、しかも真に「救われる」べき被害者の存在を措いて書くべきことではない。
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碑に石橋の名はなく、裏に「少年の日に目撃した一市民建之」と刻まれている。「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃したりしているのに口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」「終わりの近い私にとっては、この碑の建立が生涯たった一つの善行だった」(朝日新聞1993年8月31日)と石橋は語っている。
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久保山墓地には震災の翌年に3300名の無縁仏を弔う横浜市大震火災横死者合葬之墓が市によってつくられている。石橋は市長宛てに何度も手紙を書き、朝鮮人虐殺の犠牲者の慰霊碑を建立するよう訴えたが、ついに聞き入れられず、1974年に自費で碑を建てた。
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久保山墓地の関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑前でおこなわれた追悼会に参加する。碑を建立した石橋大司は震災時には小学2年生で、家族と逃げる道中、電信柱に縛られた朝鮮人の遺体を目撃。以後、家族の間でその話が出ることはなかったが、石橋は数十年そのときの記憶に苛まれ、贖罪の念を抱きつづけた。
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朝鮮人虐殺の史実を平然と歪める本がベストセラーになる現状は、まさしく「排他的鎖国精神を愛国と心得る」人間の多さを物語っている。しかもその一人がいま国葬にされようとしている元首相であったという事実を前にして「恥かしく無いだろう乎」。 asiapress.org/apn/2019/04/ja…
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内田魯庵は、自警団の蛮行を擁護しようとする風潮があることや軍憲警察の非道を糾弾し、「外国人と云へば兎角に疎隔し或は軽侮して何かにつけては毛唐呼ばはりする排他的鎖国精神を愛国と心得る日本人の偏狭なる島国根性を顧みて自ら恥かしく無いだろう乎」(「太陽」1923年11月号)と書いている。
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『神奈川県警察史』も同様で、「関東戒厳司令官告諭、陸軍当局談、あるいは勅令等によって流言の拡大を防止しようとした」ものの、不安に駆られ「異常心理」に陥った民衆が自警団を組織して虐殺をおこない、警察はこれに対応すべく「(朝鮮人の)保護に努力をつくした」という記述になっている。
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『横浜の関東大震災』を著した歴史学者の今井清一は、司法省の調査報告について、他の調査結果と照らし合わせると「隠そうにも隠せない事件だけを集めた」ものであると指摘し、一方で「殺されそうになった朝鮮人を保護したことは、かなりのページを割いて詳述」する姿勢を厳しく批判している。
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寿小高等科1年女子によると、夜警が刀やピストルで朝鮮人を脅して寿署へ追い立てた。夜が明け、署内から呻き声が聞こえたので見ると「五六人のひとが木にゆわかれ、顔なぞめちゃめちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがぴくぴくと動いているだけであった」(『関東大震災時朝鮮人虐殺横浜証言集』)。
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横浜地裁の長岡熊雄判事は、被災した市民から「警察部長から鮮人と見れば殺害しても差支ないといふ通達が出て居る」と聞き、そんなことはありえないと反論したが聞き入れられず、「如何にも誠しやかに話すので聞く人は皆真実の事のやうに思つて居る」と書いている(『横浜地方裁判所震災略記』)。
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大川の行動が「美談」となった背景には、当時の官憲が日頃から「不逞鮮人」ということばをもちいて朝鮮人への悪感情を煽動していたこと、そして虐殺への対処が不徹底であったばかりか、率先してデマを拡散し、場合によってはみずから虐殺をおこなっていたという事実がある。
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朝鮮人虐殺に抵抗した人物として語られる一人に、神奈川警察署鶴見分署署長だった大川常吉がいる。たしかに大川の行動は勇気あるものだが、後年、孫の豊氏が「(警察官が市民を守るという)当たり前のことが美談になってしまった」(神奈川新聞2013年9月28日)と語っていることは心に留めておきたい。
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<ライズィング・サン(シェル石油)社のビル・ブラッチは、三年前にいっしょに十日間の山登りをしたこともある私の若い友人であったが、鎌倉の村で、朝鮮人容疑者と間違えられて、一団の暴徒に襲われ、(略)棍棒でめった打ちにされて死んでいたのである>(O・M・プール『古き横浜の壊滅』)
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このような状況下では、朝鮮人と間違われて殺された他の外国人や日本人も大勢いた。実際にリンチを受けている現場を目撃したという証言のほか、木や柱に縛られていたり、棍棒による打撲の痕、刃物による刺し傷などが見て取れたため、虐殺の犠牲となったことは明白だった。
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<誰何して答へない者を鮮人と認め、ヘンな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りが無くても骨相が変つて居ると鮮人と認め(略)手にビール瓶か箱を持つて居ると毒薬か爆弾を携帯する鮮人だらうとして糺問精査するなど一時は全く気狂沙汰>(宮武外骨『震災画報』)
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震災後の惨状のなかで被災と虐殺の区別がついたのか、なぜ朝鮮人と特定できたのか、という愚かな疑問を呈する者もいる。当時、どの場所に朝鮮人の住居や仕事場が密集しているかは多くの日本人に周知されていた。実際、横浜では中村町周辺や神奈川の浅野造船所など朝鮮人の居住・労働区に犠牲者が多い。
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「法要ですべての震災犠牲者を追悼している」などという詭弁を弄する政治家がいるが、虐殺の犠牲者は震災を生き延びたにもかかわらず、その後に人間の手で殺されたのである。自然災害の犠牲者と同一に語ることはすなわち虐殺を否定することにほかならない。 tokyo-np.co.jp/article/128203
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鈴木達治は先の文章で「(李君のような)人道主義の実践者が一般民衆の敬慕の的となる様な日が、一日でも早く来ることが望まれる」と書いているが、残念ながら李誠七の名は一般にほとんど知られておらず、それどころか虐殺否定論が流布され、それを支持する政治家も少なくないのが日本の現状である。
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村尾履吉は生前、自身の亡骸は朝鮮人無縁仏と一緒に葬ってほしいと語っていたそうだが、敗戦の翌年に村尾が病死すると、親交のあった李誠七がひとり奔走して資金を集め、三ツ沢の納骨塔を菊名の蓮勝寺に改葬すると同時に、村尾を追悼すべく記念碑を建てた。