日本貝類学史上最大の事件であることは間違いありません。私は、果たしてこれが実話だったのか気になって仕方がなく、映画は一応最後まで視終えたものの、急いで研究室に戻り、史料に当たってみました。するとすぐ出て来たのは、細川護貞という人による当時の日記です。問題の8月10日の部分を見ると..
東條は陸軍をサザエの殻に喩え、殻を失ったサザエはその中身も死に至ると述べた、と確かに明記されています。このことは歴史学者保阪正康の著作でもやはり史実として言及されています。さらに映画の原作者半藤一利も「サザエの会話の記録が確かにある」と明言しています。したがって降伏を巡り天皇と..
東條が交わしたサザエの激論は、紛れもない史実なのです。ならば天皇はその時、実際には何と答えたのでしょうか? 映画に現れたサザエの学名と命名者についての発言が、本当になされたのでしょうか? 一番知りたいのはそこですが、残念ながら私は明確な記録を見出せませんでした。そこで私は、その..
台詞の蓋然性と妥当性を、貝類分類学の立場から検証すべく方針変更しました。そのためにはまず、サザエの学名 𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘤𝘰𝘳𝘯𝘶𝘵𝘶𝘴 の原記載を見ておこうと考えました。それはカタログ・オブ・ポートランドという、ジョン・ライトフットが1786年に刊行したとされる本に含まれています。当時...
マーガレット・ベンティンクという伯爵夫人が私設博物館を設けていたのですが、彼女が世を去ったあと閉館され、所蔵標本はオークションにかけられました。この本はその販売目録です。因みにこの人のお友達が凄いメンツで、一人はフランス革命の功績者ともいわれる哲学者ジャン・ジャック・ルソーで、..
植物学者でもある彼はベンティンク夫人とガーデニングについて頻繁に情報交換していました。もう一人は世界一周に2回成功し、ハワイ諸島を発見した探検家ジェームス・クック船長です。伯爵夫人が持っていた標本の多くは、クックから貰ったとされています。ところが、この本は無記名で出版されたため…
本当の著者が誰かわからないという問題がありました。その著者は長い間、やはり伯爵夫人の生前に親交があり、リンネの弟子でクックの探検にも同行したダニエル・ソランデルだろうとされてきました。しかし彼はこの本の刊行の4年前(1782)に亡くなっており、著者となることは不可能です。その後、…
1960年代になってアメリカの貝類学者たちが検証し直し、伯爵夫人の歿後、博物館の後片付けに関与した僧侶ジョン・ライトフットこそ真の著者と結論づけました。この人は植物・貝類学者で、ソランデルの書き残したメモを整理していたことがわかっています。このため現在ではライトフットの著作と見なす…
のが通説です。つまりこの本は、時代によって誰が書いたかの解釈が変化したわけです。画像は Ozawa & Tomida (1996) によるサザエの論文にある学名の異名表で、歴代の文献がサザエの学名と命名者をいかに表記していたかをまとめたものです。1934年以後、戦後しばらくはソランデルが命名者とされて…
きました。一方、1967年以降はライトフット説が優勢です。重要なのは、命名者をライトフットと見なすようになったのは1960年代以降に限られる点です。ここで、映画の天皇と東條の場面を思い出して下さい。あれは1945年の設定です。当時の天皇がライトフットという名を口にする可能性はありえません。..
つまり映画での台詞は原田眞人監督(脚本も担当)が時代考証を誤ったわけで、図らずもそれが創作であることの動かぬ証拠になっています。私が一瞬夢見た「サザエの学名の議論が、日本の戦後への道を開いた」という物語は、残念ながら空想の産物でした。しかしそれでもなお、映画の天皇の台詞は一定の…
リアリティがあるのです。なぜなら、昭和天皇は実際に、熱狂的な貝人だったからです。2015年から宮内庁による「昭和天皇実録」が発刊されましたが、知野光雄氏がこれを精査し、天皇と貝類学の関わりに関する記述を調べ上げた報告があります。それを見ると、明治39年、天皇5歳の時に、「貝拾いを…
される」、「分類を試みられる」とあり、これが最初の記述だそうです。そして明治44年11歳の時には益々貝にのめりこみ、朝も夕も寝る時も食事の間も貝のことが頭から離れないようだとか、貝に熱中しすぎて困るのでブレーキをかけねばならぬ、とまで書いてあります。天皇の貝類学への情熱はその後も…
途切れることなく崩御まで続き、貝に関する記述はこの実録の中に381回も登場します。つまり昭和天皇の生涯は常に貝類学とともにあったと言えます。このような天皇ですから、東條がサザエを比喩として持ち出した時、「サザエの学名も命名者も知らんやつが下らんことを言うな!」と激怒したとしても、…
不思議はないのです。その点で映画「日本のいちばん長い日」は、時代考証を僅かに誤ったとはいえ、貝人昭和天皇のリアルな姿を描き出すことには成功したと言えるでしょう。これでひとまず、当初の私の疑問は解決しました。しかし、本当の衝撃の展開は、ここからだったのです。(次のスレッドに続く)
しまった、原記載の書名を間違えていました。正しくは「カタログ・オブ・ポートランド・ミュージアム」でした。訂正してお詫びします(他にも誤字脱字はありそうですが)。
サザエ後篇。さて、せっかく原記載まで見たので、この機会に私はサザエの分類の歴史を回顧してみようと思い立ちました。画像は私の論文が公刊された時点(2017年5月)までの、サザエとその姉妹種ナンカイサザエの分類上の扱いです。リュウテン科リュウテン属サザエ亜属に.. doi.org/10.1080/132358…
両種の分布は、サザエは北海道南部〜九州(岩手県を除く)と韓国南部に固有で、ナンカイサザエは中国南部と台湾に限って産出します。その間の南西諸島や、黄海・渤海にはどちらも見られません。両種はDNAの解析の結果、互いに姉妹種(共通祖先から分かれた2種)の関係にあると判明しています。…
(Davila, 1867: pl. 5, fig. I)で、この図(画像左:原図を左右反転)に対して𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘤𝘰𝘳𝘯𝘶𝘵𝘶𝘴の名が与えられたことになります。しかし、私はこれを見たとき我が目を疑いました。なぜなら棘は狭くて間隔が狭く、肩に2列描かれており、明らかにサザエではありません。...
しかもその本文には「中国産」と明記されています。驚くべきことに、従来ずっとサザエの学名とされてきた𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘤𝘰𝘳𝘯𝘶𝘵𝘶𝘴は、実は別種ナンカイサザエを指していたのです。私以前には誰も原記載を再確認した人がいなかったために、この混乱が生じてしまったようです。しかしそれは無理も...
ないことで、上記2文献は日本にない稀覯本です。2010年代になってネット上のデジタルアーカイヴが発達し、誰でも簡単に電子ファイルを閲覧できるようになるまでは、内容の確認は極めて困難だったのです。ともかく、従来のサザエの学名は誤りであることが判明しました。ではサザエの適切な学名は..
何なのでしょうか? 私は18世紀後半以降の𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘤𝘰𝘳𝘯𝘶𝘵𝘶𝘴が登場する全文献の見直しを余儀なくされました。しかし、その時代のどの文献を見ても、肩の棘が短くて複数列あり、中国産であると記されています。つまり例外なくナンカイサザエで、サザエは登場しません。初めて西洋の文献に..
サザエが現れたのはイギリス人Reeveの1848年の図譜(右)であり、その図は紛れもなく我々がよく知るサザエですが、学名は𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘤𝘰𝘳𝘯𝘶𝘵𝘶𝘴とされており、これこそが最近まで連綿と続いてきた誤同定の源泉でした。ところがこのReeveの本には、更に奇怪な図と記述が掲載されています。…
𝘛𝘶𝘳𝘣𝘰 𝘫𝘢𝘱𝘰𝘯𝘪𝘤𝘶𝘴という学名とともに2つの図があり、その一方(左下、fig. 33b)は日本のサザエの無棘型で、シーボルト採集と記されています。ところがもう一つの図(左上、fig. 33)は似ても似つかぬもので、日本のどこを探してもこんな種はいません。つまりReeveは、異なる2種に…
同じ学名を同時に与えてしまったわけです。複数の別種に対する同じ学名、つまりホモニムです。また、同一文献で複数の名が同時に記載された場合どちらが優先されるかは、その後に刊行された文献のうち、最初にどちらかを選んだ著者の決定に基づく、と国際動物命名規約で定められています。それに相当…