出だしは昨日のツイートに挙げた、鍋で巻貝や二枚貝を煮る画像や、「湯沸かしポットが便利」などと説明し、その辺りまでは世界中から集まった聴衆が爆笑していました。これには「日本人何考えてんだ」「加熱した標本が検討に耐えうるのか?」など冷ややかな目も少なからず混ざっていた気がします。..
しかし、この画像から空気が一変しました。軟体を解剖する上でも加熱した肉抜き標本は、生きたままや、直接固定液に浸けたものよりずっと特徴が把握しやすいのです。ズルズルの粘液が程良く固まって気にならなくなるだけでなく、透明な器官も不透明化し、輪廓が明瞭に見て取れるようになるからです。..
そしてとどめは、芳賀会員がDNAについて挙げたこの画像でした。同じ種(イシダタミ)に対し、A: MgCl₂で麻酔した生貝、B: 肉抜き個体、C: 生きたまま殻を割ったもの、D: 生貝を固定液に直接浸けた標本、E: 死後丸1日放置した生臭り状態、各々の18S rRNA遺伝子がPCRでどの程度増幅できたかを示します。
結果は明瞭で、なんとBの、肉抜き個体しかうまくいっていません。軟体動物の場合、元々DNA分解酵素を多く持っており、活きのいい生貝でも失敗することが多いのですが、熱を通せば分解酵素は失活できます。また海水中に含まれるマグネシウムも分解酵素の触媒となりよくないのですが、肉抜きすれば..
その過程で自然に洗い流され、除去できるのです。この事実はそれまで和文で書かれた簡単な記事はありましたが、国外の研究者の大半はこの時初めて知ったので、壇上の私は聴衆全体が一斉に、文字通りに「息を呑む」光景を目にしました。直前まで大爆笑の渦だった会場が、一瞬で静まり返りました。...
発表終了後は大勢の人から「私の研究対象はこの分類群だが、何度何秒が適当と思いますか」などと質問攻めに遭いました。同様の質問はあれから14年経った今も時々メールで届きます。多くの論文に niku-nuki の語が平然と現れるようになり、私の当初の目標は達成できました。この時の発表内容は下記..
論文にして公表し、巻末には実体験に基づく種ごとの最適温度&茹で時間を、約200種について列挙しました。 Fukuda, H., Haga, T. & Tatara, Y. 2008 (25 Jul.). 𝘕𝘪𝘬𝘶-𝘯𝘶𝘬𝘪: a useful method for anatomical and DNA studies on shell-bearing molluscs. 𝘡𝘰𝘰𝘴𝘺𝘮𝘱𝘰𝘴𝘪𝘢, 1: 15–38.
vetigastropoda.com/micromolluscs/… または researchgate.net/publication/27… (肉抜き話はさらに続きます)
昨日の肉抜き第2話に思いがけず多大な反響を戴き、昨朝は500人台だったフォロワーさんの数も、一夜にして3倍以上になりました。皆様本当にありがとうございます。第3話は今宵、ご披露する予定です。 一つお願いがございます。目下差し迫った脅威として、固定ツイートとしているハチの干潟の問題が...
肉抜き第3話。昨日ご紹介したベルギーでの発表の際にもう一つ強調したのが、SMAPの名曲ではないですが「世界に一つだけの貝」、ナガシマツボの肉抜きです。この種は1999年に得た1個体をもとに新種として記載しましたが、その後の度重なる調査にも関わらず、まだ2個体目が見つかっていません。…
つまり全生物を見渡しても「世界一稀少な種(タイ記録)」です。この種は、山口県南東部の上関町長島に建設が計画されている、原発の予定地内で発見されました。地元ではその時点で、30年近くにわたり原発推進・反対両派が激しい対立を続けていました。 私はその2年前(1997)、予定地の南東の八島で…
別の新種ヤシマイシン(カクメイ科)を見出したため、事業者中国電力が山口県の勧告を受け、私に調査を依頼してきました。カクメイ科は巻貝の進化におけるミッシングリンクと呼びうる稀有な存在で、八島と大分県姫島が北太平洋全体で当時2つだけの産地であり、原発予定地の環境影響評価の一環で…
棲息の有無を調べる必要が生じたのです。もし予定地内でカクメイ科が見つかれば、無視して建設を進めるわけにはいくまいというのが当時の通産省や山口県の判断でした。 1999年8月23日、私は7人の研究者と共に中電の担当者に案内され、小舟で島の先端の予定地へ向かいました。当時そこへは満足な道も..
なく、手付かずの自然が広がっていました。浜へ着くなりすぐに、途轍もなく高い生物多様性を示す場所であることに驚嘆しました。貝類は過去百年以上再発見されていなかった種や、瀬戸内海の他所で極めて稀になった絶滅危惧種が次々に現れました。踏査するうち、目標のカクメイ科も棲息が確認され..
我々が歓声を上げた傍らで中電の人が悄然とうなだれていたのが印象的でした。ともかくそのような稀少種の宝庫に来て、少しでも長く調査したかったものの2時間限定の約束だったので、私はカクメイ科のいた潮溜りの底から堆積砂泥を急ぎ掻き集め、持ち帰って微小種を探すことにしました。..
その日の夜、私は持ち帰った砂をトレイに広げ、海水を張って、這い出してくる貝類を待ちました。しばらく後、長さ約3 mmの赤っぽい細長い巻貝が一匹、水面の表面張力を利用して逆さまに浮いているのに気づきました。掬い上げて見ると、殻の特徴からワカウラツボ科に属すことはすぐにわかりましたが..
種レベルでは初めて見るものでした。大学へ戻って散々文献を繙いても、一致する既知種は見当たりません。新種の可能性は濃厚でした。しかしそれを実証するためには、外見の観察だけでなく、解剖して少なくとも生殖器や歯舌の形態を把握せねばなりません。もちろん同時に、殻も無傷で残さねば論文発表..
はできません。つまり、肉抜きの失敗が絶対に許されないのです。たった1個体ですから後がありません。肉抜きを知らない海外の研究者なら最初から諦めていたはずですが、日本で育った私に逃げは認められないでしょう。しかし、全く初めて見る種を一発で完璧に抜けるものか? 私はだんだん、事態の..
深刻さに重圧を感じ始めました。もし新種なら、原発予定地はその時点で世界唯一の産地です。他で一切記録がない以上、カクメイ科以上に重視すべきかもしれないのです。その同定は原発計画の行く末にも影響を及ぼしかねません。だのに、ろくな検討もできずみすみす無駄にしてしまっては、この先私は..
手首を掴んで落ち着かせてから、ピンセットを握ったのを覚えています。貝の足に触れて軽く引っ張ると、抵抗もなく、全体がつるりと殻から出ました。肉抜きは、完璧でした。よっしゃあああ! 私は無人の研究室で一人絶叫しました。2時を回っていました。涙が出ました。しかし抜けて終わりではなく、..
解剖はむしろそこからです。私はすぐ着手しました。立派に成熟した雌で、貯精嚢は精子で満たされ、つまり同じ場所に遠からぬ過去、雄がいたことを示していました。何かの幼貝という可能性は棄却できました。生殖器だけでなく鰓や消化器、中枢神経系まで、全て問題なく把握できました。歯舌も無事摘出..
信じ難いから状況をもっと詳細に書くように」と注文がつきましたが、新種であるとの判断や、解剖所見に対して修正要求は来ませんでした。この時の結論は今に至るまで訂正を強いられず維持されています。タイプ標本は山口県立山口博物館に所蔵され、2017年の夏には、大阪市立自然史博物館で開催された..
瀬戸内海特別展で展示されました。環境省レッドリストでは絶滅に最も近い状態にある種を対象とする絶滅危惧I類に選定されています。しかし、その後も私はこの種を全国で執念深く探しているにも関わらず、2個体目に出逢えず、いまだに「世界に一つだけの貝」のままです。これはむしろ悲しい称号であり…
一刻も早くそこから脱するよう私は望んでいます。いずれにしてもこの一件は、肉抜きの持つ最大の長所が発揮された例だったとは言えると思います。また原発建設計画は、福島の事故以後事実上凍結されてはいますが、撤回されたわけではありません。目下世界唯一のナガシマツボ産地の未来がどうなるのか…
まだ誰にもはっきりとはわからないのです。ただ、論文を世に出せた直後の2000年初春、地元で長年原発の建設に反対してきたお年寄りの一人が私の手を取り、「あの貝は、ここの全生物を代表して、あんたの前に現れてくれた」と涙ながらに訴えたことを、私はきっと、いつまでも忘れることはないでしょう。