「ノー」を言えず悩む人は多い。 だが実際は断れないというより、「断ってはいけない」「断らない方が良い」と察していることがある。 幼少期の大人との関係から、頼まれたことを断ると『良くないことが起こる』と知っているとそうなりやすい。 引き受けるストレスより、断る恐怖が勝ってしまう。
「私なんかと話してもつまらないよね…」と不安になったら、「誰かに言われたことある?」と自分に聞いてみて。 「あ、言われたことない」という人、もしくは「特定の誰か」にしか言われていない人が多いと思う。 もしそうなら、その人がそう言っただけ。みんながそう思ってるわけじゃないからね。
幼少期に愛された経験が、「うまくいく気がする」「大丈夫」という自信を生み出す。何か出来ても出来なくても、自分には価値があることを親が教えてくれる。 だがその経験が不足している場合、なぜかうまくいかない気がする。 「どうせ何も変わらない」と始める前から諦めてしまうのには理由がある。
アダルトチルドレンにとって笑顔は、自分を守る仮面。 落ち込んでも辛くても限界でも、笑顔でいれば気づかれない。気づかれないために笑うが、本当は誰かが気がついて救い出して欲しいとも願う。 傷つけられないための防御として「怒り」を使うこともあるが、多くの場合は相手を傷つける意図はない。
新しいことを始める時は、不安なことの方が頭に浮かびやすい。 やる気がないわけでも、怠けているわけでもない。脳のしくみのせい。 やりたいのに一歩踏み出せない時には、『これが出来たらどんな良いことが起こるか』3つ書き出してみる。 脳が前向きになるから、成功する確率もグッと上がりますよ。
「未だに過去に縛られているなんて」と、自責する必要は全くない。 心が柔軟な幼少期に習得した行動、思考、人間関係の作り方は自分の基礎として残る。知らないうちに「性格の一部」のように身につき、大人になった時の生きやすさに影響を与える。 だからこそ縛られていると気づけたのは大きな一歩。
自分の名前を呼ばれるだけでドキッ…としたり、焦ったり、ソワソワする人がいる。 子どもの頃、励ましたり褒められるよりも、怒られたり指摘されることの方が多いとそうなりやすい。「名前を呼ばれる=良くないことが起こる」と思ってしまう。 その影響が強いと、条件反射でビクッとなることがある。
ご飯を作った、掃除した、洗濯した、何とか一日が終わった。それだけで十分「できた」。 あれこれ完璧にしなきゃと走り回ってるあなたが手抜きしたりゴロゴロできたなら、それは立派な「できた」なの。 「まだまだ」と頑張りすぎるあなたが、「もう無理!」と泣けたなら、それも「できた」なんだよ。
遊びに行きたいけど、家にいたい。 一人になりたいけど、誰かに傍にいてほしい。 仲良くなりたいけど、自分のことを知られるのが怖い。 両価性(1つの物事に相反する2つの感情を同時に抱く)が強く出ることがある。 本人もどうしたらいいか分からず、大きなストレスを抱えてしまう。
みんなにとって良い人が、あなたにも良い人とは限らない。 みんなにとって悪い人が、あなたに悪い人とは限らない。 誰かにとって良いことが、別の誰かにとって悪いものになることもある。 「周りの誰か」の基準に従わなくても、大丈夫。 良い・悪いの基準は、立場や状況、環境によって違うから。
理不尽に攻撃してくるような相手は、あなたがどんなに努力しても、優しくしても、立ち向かっても、言い返しても変わらない。だからその勇気とエネルギーは、その人から逃げることに使う。 逃げるのが悔しいならこう考えてみて。 相手が一番悔しいのは、あなたが自分から離れて元気で幸せでいること!
親に遠慮して生きてきたACが、大人になって人間関係を自ら壊し後悔することがある。 相手を好きで理解したいし、大切にしてずっと一緒にいたいのに、感情的に攻撃してしまい自己嫌悪に陥る。 「好き」の言葉を信じられず、愛が分からず苦しみ、大切な存在がいつか自分から去っていく恐怖を感じる。
「落ち込み」は、誰でも感じる気持ちじゃない。 適当に生きて、なんとなく過ごして、それでいいやと思っていたら「落ち込む」なんてそもそもないんだよ。 だから落ち込んでいる時点であなたは、何かを諦めていないってこと。 頑張って努力してたり、前に進んでいるからこそ、そう思えるんです。
モラハラやパワハラ、毒親の怖さは、離れてもなお影響を及ぼすところ。 相手と似たような人を見ただけで怖くなったり、相手から連絡が来るだけで胸がバクバクしたりする。被害に気がついてからの方が「酷い辛い」と訴える人は多い。 これまで麻痺していた心が、離れることで「感じる」ようになる。
辛い症状や悩みが消えるには、時間がかかります。 「早く前みたいに」「いつになったら…」と悲しくなるかもしれない。 でもまずは人に頼ったり、自分のSOSサインに気が付けるようになったり、罪悪感なく休めるようになることから。 焦っちゃうけど、大丈夫。 全部今のあなたに必要なことだから。
ハラスメント加害者は「外から見た自分」のイメージを大切にする。 だから攻撃するのは、やさしいパートナーや子ども、特定の人だけ。それも家など周囲の目が届かないところでしか攻撃しない。 一歩外に出ると優しくて物静か、人当たりが良い、おとなしそう、優しそうという印象を与えることも多い。
やってあたりまえのことなんて、何一つないんですよ。 家事も、育児も、仕事も、片づけも、買い物に行くのも、話を聞くのも、朝起きるのも、気を遣うのも… 全部そう。 「これくらいで」「もっと頑張らなきゃ」なんて、自分で自分を追い込まないで。 あなたはもう、十分頑張っているのだから。
毒親育ちだというと、「甘えている」「親のせいにしている」と非難されることがある。 だが、そうではない。 実際には、子どもらしく甘えられるはずの幼少期に甘えられなかった。そもそも人のせいにしていたら、大人になってこんなに苦しまない。 甘えてはいけないという発想こそ、過去の呪縛なから。
大人たちの「普通」に苦しむ子どもたちがいる。 特に身近な人や大切な人からの「普通は○○なのに…」という言葉は、全否定されているようで辛い。 おかしな行動をしていないか、変に見えないだろうか、どう思うか、何を選べば納得するのかと、「普通」のラインを探し求めるうちに「自分」を見失う。
「気にしすぎ」と言われても、気になるよね。 「大丈夫」と言われても、不安だよね。 「考えすぎ」と言われても、考えちゃうんだよね。 誰にもわかってもらえなくて、辛くなる日もあると思う。 そんな日は、自分で自分に「あるある。そうだよね」「そう思って良いんだよ」と声をかけてみる。
誰かが辛そうだと、自分が疲れて限界なのに動いてしまうと悩む人が増えている。 「私は家政婦じゃない」「働かざるもの食うべからず」など、過去に見聞きした親の言葉に駆り立てられることもある。 人間関係のベースは親子。 過去の罪悪感や恐怖が、大人になった時の「やらなきゃ」に繋がる。
相手に尽くすのがダメなのではない。 尽くすことが自分の喜びになっているのならそれも1つの幸せの形。 でも、自分の無価値観(私には価値がないという不安)を隠すために尽くしすぎると関係が長続きしない。自分の気持ちがおいてけぼりになり、気がついた時には疲れてしんどくなってしまう。
脳は、思っていることを現実にしようとする。 「こうなりたい!」と願いながら「どうせ私には出来ない」と思っていると、無意識に『出来ない』行動をとってしまう。 実は、これは幼少期に作られやすい思い込み。 励まされるはずの時期に、否定や心配ばかりされると「できない」イメージが強くなる。
「できてるよ」と褒められて戸惑うほど、「あなたはダメ」「まだまだ」と言われ続けてきたのかもしれない。 「すごいね」と褒められて戸惑うほど、叱られる回数の方が多かったのかもしれない。 「大好きだよ」と言われて戸惑うほど、今まで愛されてる実感が持てなくて不安だったのかもしれない。
ACは、親が必死になって守ろうとする「世間体」のために自分を犠牲にする。 その家で少しでも平和に生きていくため、親を悲しませたり怒らせないために、自らそうすることを選ぶ時もある。 …正確には、そうするしかなかった。 理想の家族を演じて周囲から褒められ羨ましがられるたび、心がすり減る。