重要なことだから何度も言うんだけど、体調が良くないときの、自分の精神状態をあんまり信用しない方が良い。ネガティブに傾きがちなときの自分の心の声に、とらわれすぎない方が良い。
(いいですか…「自分と同じタイプ」かつ「同族嫌悪を感じない」かつ「うまく自分を乗りこなしている」Twitterユーザーをみつけ、フォローするのです…彼/彼女こそがあなたのロールモデルです……探すのです…根気よく探すのです…現実世界よりは、よっぽど見つけやすいことでしょう…)
ああそうか。話していて楽しい人というのは、私の言葉を使って話をしてくれるのだ。私がどういう意味でその言葉を使ってるのかを理解してくれて、私に合わせて話をアレンジしてくれている。私が好きそうなものに例えた話をしてくれる。私の思考の流れを決して邪魔せず、そして言葉を待ってくれる。
努力した結果って、急に現れてくるんだよね。ある日突然、スコアや記録が伸びる。その瞬間がいつ訪れるのかはわからない。結果が出ない日々を、淡々と過ごすほかない。だからこそ、努力を続けるのって難しい。結果が出ない努力を、それでも続けられるかどうか。
「あの人きらい」じゃなくて、「あの人のこういうところがきらい」、「この仕事きらい」じゃなくて、「この仕事のこういう作業がきらい」みたいなかんじに細かく「きらい」の中身を把握しておくと、ほんとうは「全体的にはすき」なものを、間違ってきらいって判断しちゃうミスを防げる。
やる気がないときに「やる気を出す方法」を考えるクセをやめる。 やる気がないときは 「やる気がない今の自分でもできそうなこと」 を考えるクセをつける。 やる気がなくてもできることが増えれば、 やる気があるときにできることはもっと増える。 やる気のないときこそ、アイディア勝負。
ダメな人も努力すれば輝けるかもしれない世界じゃなくて、ダメな人もダメなままで輝ける世界、「これこそが輝きです」と押しつけてこない世界、「こういう輝き方もあるよ」がたくさんある世界、そもそも輝くことを強制しない世界、かといって輝こうとすることをくささない世界、みたいなのがいいです。
「やる気がないときは、やる気がないなりに出来ることを淡々とこなす」 このライフハックのおかげで「こんなことやってる場合じゃないのに」ともやもやしながらゴロゴロしたりすることがなくなって快適になったから本当にこれは何度でも布教していきたい。 note.com/fta7/n/n5f22a9…
できるだけ綺麗な言葉を使いましょうっていうのは、言葉って「思考の部品」だから、良い部品を揃えた方が綺麗な思考が組み上がる確率が高くなるよってこと。ただしやり過ぎて「わるい言葉をなくそう」って考えると途端に崩壊する。明るい色だけで綺麗な絵は描けないのと同じ。どす黒い色だって必要。
すぐテンパって深刻に落ち込んじゃうマンだったんだけど、「深刻になるな、真剣になれ」という言葉に感動し、どうすれば深刻から真剣モードに切り替えられるか試行錯誤した結果、「これって、本当にそこまで深刻なことか?」という質問を自分に投げかけることで、力がいい感じに抜けることを発見した。
完璧主義の人間は、実はむしろ「やりすぎない」のが長続きするコツだったりする。やり過ぎると身体がその疲労感を覚える。やり始めたばっかりの頃はその疲労感が達成感として快感に感じられるけど、だんだん新鮮さが薄れてくると、疲労感だけが残ってしまうから、なかなか続かなくなってしまう。
脱線しがちな人にはぜひ「つかれた、飽きた、めんどくさい、と感じたらその瞬間に目を瞑る」というのを試してみてほしい。脳は疲れを感知すると、無意識に脱線先をさがしてそこに逃げようとする。目を瞑ることでその検索をシャットアウトすると、脳内が整理され、脱線したいという欲望も落ち着く。
あなたを褒めて気持ちよくしてくれる人のことは、ほんとうに大切にしてな……。 彼らも人間だから、「全然そんなことない」「でも私にはこういうダメなところもあって」なんて謙遜(というか、相手の意見の否定)ばかりされてたら疲れてしまう。褒めは勇気を出して100%額面どおりに受け取って喜ぼう。
「自信が無い、は自意識過剰」と誰かが言っていた。今の自分に満足いかない、もっとできるべきなのにできない、だから自信が無い。それってつまり、過剰に自分に期待しすぎている。「少しでも理想に近づこう!」と考えるより「ほんの少し、昨日より良くなろう」を積み重ねる方が良い時期もある。
沢山人に会ったり、色んな場所に行ったり、する必要ないです。というか、「沢山人に会ったり色んな場所に行かないと豊かな人生にならない」という思い込みがあるならなおさらです。 自分の中に必然性が生まれてからで十分です。どうしても行きたい、どうしても会いたい。そう思えてからで十分です。
「他人を理解する」っていうのが、 「自分の中にある型にはめる」ということだと勘違いしている人、けっこう多い気がする。 「他人を理解する」っていうのは、むしろ 「相手の中にある型を知る」というほうが近いように思う。 自分を一旦捨てて、相手の思考と感情の型で、ものごとを見れるかどうか。
これ、絶対好きだろ、手を出したらハマる、って思うものほどなかなか手を出せないのなんでだろう。このブレーキは何者だ。しかもそれは、依存性があるとかそういうものじゃ全然ない。経験上、これに手をだすと間違いなく生活の質が上がる。不思議だ。このブレーキまじこれなに
新しい習慣を取得するためには、 ギャンブル(当たるかどうかわからない) コレクション(蓄積されていく) 快楽(単純にそれをするのが気持ち良い) の三要素が必要なんだとか。 習慣化をミスるときはこのうちどれかが足りない。 ちなみにガチャには全部揃ってる。恐ろしいおそろしい。
いつも話をにこにこ聴いてくれる人。気を遣わせない人。そういう「いつも機嫌がいい人」というのが間違いなく、現代におけるもっとも至高な存在。人間国宝級。 そしてこれはナチュラルにやっている人ほど、周りはその人の存在が当たり前になりすぎてて、そのありがたさを忘れてしまう。
「イラッ」はかなり優秀なアンテナで、自分の理想の世界を毀損されたときに発生する感覚で、つまり自分の理想を「イラッ」によって再確認できるわけで、つまりイラッとする相手に対峙したときには、その真逆の性質を持つ理想の憧れの人物を思い描くようにすればよい。うまくいけば清々しい気分になれる
下手にコミュ力鍛えると、色々な人に気に入られようとして案の定どうでもいい相手に気に入られちゃって、肝心の気に入られたい相手には緊張とかして本領発揮できず、結果、いらない人間関係ばかり成長していくという不毛な結果を招くので、コミュ力はまず「断る、拒否る力」から身につけたほうがいい。
そうか。 好きなことをする=自由に好き勝手にふるまって生きる ではなくて、 好きなことをする=自分とおなじ「好きなこと」をしている人たちの世界で生きる ということなのだ。これもまた、他者とのかかわり方の話なのだ。
「力を抜く」のは技術なので、特訓しないとうまくできるようにならない。 自分を甘やかしたり サボったり 贅沢したり 休んだり 遊んだり するのもやっぱり技術だから、ちゃんと時間とって、勇気出してやらないと、うまくできるようにならない。
いやほんと、一日5分を続けることで世界は劇的に変わる。 一日5分家計簿つけるだけで無駄が減ってお金めちゃくちゃ貯まるし。 問題は一日5分を続ける技術。やろうと決めたことを毎日続ける技術。 ポイントはやりすぎないこと。「もうちょっとやりたい、やれるのに」という感覚で終わらせること。
完璧主義って不安の裏返しで、不完全さを後悔するのが怖いのかもしれない。完璧主義の人間が意識してきたえるべきなのは、「中途半端な状態で公開する度胸」の方なのかも。