まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(リツイート順)

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想像以上にTDLのシンデレラ城を「下総舞浜城」と呼ぶ行為は浸透していない模様
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「歴史が役に立つのか」という話が色々波紋を呼んでいるようですが、歴史というものは端的に地域、社会、国家、或いは世界が現在に至る「経緯」であり、それぞれの経緯を正確に把握することは、将来に向けての筋道も、より摩擦のない形で指し示す事が出来るわけで、非常に重要な学問だと考えています。
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歴史上、武士社会における「源頼朝」登場のインパクトというのはやはり物凄いものがあって、後に武家を統率する立場の者達が、征夷大将軍やら右近衛大将やらに任官するのも、要は「源頼朝の立場を継ぎます」という表明なんですよね  #鎌倉殿の13人
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強右衛門さん( ;∀;) なお、彼の息子が関ヶ原合戦の後、逃亡していた安国寺恵瓊を捕らえるという勲功を立てたとされます #どうする家康
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この三方ヶ原の時「家康公を助けた」という伝承が三河遠江地域には山ほどあり、その殆どが「この礼として神君より○○のお墨付き、特権を許可された」という話とセットになっており、多くは江戸期に入ってそれら惣村、集団の既得権を幕府に認めさせるために作られた伝承と考えられます #どうする家康
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説明が衝撃的すぎて思わず2度見する絵
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健康の権化みたいに言われる家康だが、記録を見ると意外と病気等で臥せっていることが間々あり、健康に気を使うようになったのはそれらを乗り越えた晩年の事だったと考えられる #どうする家康
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木下藤吉郎(秀吉)は、20代で既に織田家の奉行として尾張の在地行政に係わっていたフシが有るし、彼の弟の長秀(秀長)も、秀吉とは別個に信長に仕えていた(秀吉の配下に入るのは秀吉が西国を任されてから)ので、その出自はそもそも織田家と結びつきの強い家だったと考えたほうがいいと思う
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摂津晴門は、実際には元亀二年七月、伊勢神宮の禰宜職に関する独断での武家執奏について義昭の怒りを買い、逼塞を命じられ、同年11月に伊勢貞興が新たな政所執事に任命されています。 #麒麟がくる
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後白河院が一の谷の合戦前に和平仲介の書状を送ったのは史実であったようで、平宗盛は合戦後後白河院に対し「このために鎌倉勢の突然の攻撃に対応できなかった。」と抗議の書状を送っています。 ただこの書状で平氏が本当に油断していたのかは定かではありません #鎌倉殿の13人
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この記事だとさも昔はマナーを守っていたように書かれていますが、罵声大会なんて10年以上前からあったし撮り鉄の線路内や私有地への侵入で何なら人身事故も起こってたし、歴史改変もいいところ 撮り鉄 ホームで「罵声大会」、注意されると「逆ギレ」も マナー崩壊の背景 dot.asahi.com/aera/202105120…
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おおお…。これはすごい JR西日本、人型重機ロボットと工事用車両を融合させた鉄道重機開発 | マイナビニュース news.mynavi.jp/article/202204…
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戦費で西南戦争の意味を表しているのはエグいですね #青天を衝け
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家康は「忍耐の人」と言われがちですが、それはあくまで家康側の主観、或いはそう受け取って欲しいイメージに過ぎず、武田など敵対した側からすれば、自分の優位な点を常に計算しつつ陰に陽に弱点をネチネチと攻め続け音を上げれば一気に食らいつく恐ろしい相手なのであり
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石田三成の「嫌われ設定」というのは、実際にはほぼ後世に付加された物と考えられ、実態としてはあんな極端な性格ではなく、よくも悪くも同時代的の「常識的」な範囲内にある人格だったと考えられる。
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史学的に言うとこの、正親町天皇の退位を信長が強要していた、というのは現在否定的に見られています #麒麟がくる
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三条西実澄(実枝)は、細川藤孝に古今伝授をした人でもありますね。また朝廷の長老で、信長からも非常に信任された公家でもあります。 #麒麟がくる
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この佐々木秀義の子孫は武士の時代を通じて力を保ち、結果的に明治まで大名として存続しました #鎌倉殿の13人
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自分で丹念に育て上げた鷹を、平然と外交のコマにできる辺り、朝倉義景は土岐頼芸と違う、という事を表していますね #麒麟がくる
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『平家物語』「木曾殿最期」では、義仲の討死を見届けた今井兼平は坂東の武者に向かい 「これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」 と言うと太刀を口に含み、馬から飛び降りてその太刀に貫かれて死んだとあります #鎌倉殿の13人
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一方的な「義の武将」イメージも短絡的ですが、「寺社を焼き討ちしたから義の武将ではない」というのも短絡的に過ぎると思う。 「義の武将」めっきはがれた?上杉謙信、寺社を焼き打ち:朝日新聞デジタル asahi.com/articles/ASNB6…
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秀吉末期の徳川家というのは、当主である家康本人が「羽柴一門」筆頭であっただけでなく、嫡男の秀忠も秀吉から完全に特別扱いされており、個人ではなく「徳川家」そのものが羽柴(豊臣)政権の柱石として秀吉から待遇されていたらしい、というのが昨今のこの時期の研究認識
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#鎌倉殿の13人 は、初期鎌倉幕府というものが、同じ源氏で武士である武田信義が「お前たちは狂ってる」と評するほど「こんなにもやゔぁい組織だったのか」と言うことを歴オタ以外の人たちに強く認識させただけでも、歴史ドラマとして高く評価出来ますね。
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この河田次郎の処刑は武家の先例とされ、故に信長の甲州征伐に際し武田勝頼を裏切った小山田信茂も処刑されたわけですね #鎌倉殿の13人
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そーいえば「義経の逆落し」の場所が鉄拐山か鵯越かという場所の比定は、源平合戦の研究でわりと古くからある論争ですね、その辺りをドラマに取り入れたのですね #鎌倉殿の13人