まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(リツイート順)

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まあ買うよね。これは面白いです
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もしやこの教えが後の御成敗式目に #鎌倉殿の13人
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この信長公なら竹千代が(暴力性とは別の意味の)警戒心を抱いているのも納得できますねw #どうする家康
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おおお…。地上波の方、是非見て…。すごいわ #鎌倉殿の13人
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戦国期、あるいは中世を『一揆の時代』と評することがありますが、アレはつまり、『一揆』という相当に社会的・心理的・宗教的に強制力の有る結合を選択しなければならないほど、そのままでは相互不信が強かった、という事でもありまして(一揆を結んでも平気で裏切りとかありますしね)
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建久元年(1190)の源頼朝の上洛で、頼朝は天皇への参内よりも後白河院との対面を優先しており、自身が院に忠誠を尽くしその王権を支えることを強調したとされます。ちなみにこの時後鳥羽天皇は11歳 #鎌倉殿の13人
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ナチスが政権を取る以前、その極端な反ユダヤ主義の主張にも関わらず、一部世俗的ユダヤ人の中にも彼らを支持する人々が居たが、それはナチスの反ユダヤ主義があくまで「ユダヤ教信仰」についての主張であるとの理解からのもので、まさか遺伝学的なものだとは想像もしていなかったという面もあったとか
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割りと真面目に、この氏真なら今川滅びなかった気がする。 #どうする家康
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WBCの話題で、日本チームのベンチがアメリカなど他の国に比べてゴミひとつ落ちて無くてものすごくきれい、という話がありましたが、その反応の中で『むしろあんなゴミだらけのベンチで試合の集中力を維持できるメジャーリーガーって凄くね?』という意見があって確かにと納得してしまうなど
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ちなみにこの八田知家、平家追討の時、頼共に無断で任官してしまい「怠け馬が道草を食うようなものだ!」と罵倒された経験があります。 #鎌倉殿の13人
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自分が追討対象になっていることを知った忠重は、この事体から逃げず、潔く戦うことを選んだ、とされます。 #鎌倉殿の13人
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吾妻鏡には「この時義盛は逆心を考えた」とあります #鎌倉殿の13人
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というか、浅井長政が美化されたり、当時の存在感についてやたら過大評価されたのは、結局彼の娘である淀殿が秀吉の側室となり秀頼を生んだためですね。それにより何のかんので浅井残党が淀殿の元に集まったフシもあります。
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逆に言えば現在社会における大小様々な「問題」が、何故そうなったという経緯、すなわち「歴史」を理解しなければ、それを解きほぐすための手順も見えてこないわけですね。「問題」も様々な積み重ねによって出現するわけですから。
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歴史認識で最近思い知らされたのが、呉座先生の「応仁の乱」があれだけヒットして世の中に応仁の乱についての現在の研究水準を広めたはずなのに、今でも堂々と「応仁の乱は将軍家の跡目争いで起こった」と言っちゃう人が沢山いるのが現実なんですよねー
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梶原景時の讒言というのも結局『吾妻鏡史観』ですなあ #鎌倉殿の13人
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これは確かに厭離穢土 欣求浄土を唱えたくなりますわ #鎌倉殿の13人
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なお、伊達政宗は浅野長政(長吉)が亡くなった14,5年後、茶人の佐久間不干斎に招かれた茶会で「私は弓矢八幡に誓って人を嫌うことはありません!但し浅野弾正(長政)の関係者とは同心出来ません。それ以外は誰とでも仲良くします!(意訳)」と言っているので、本当に心底嫌いだった模様
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島津氏自体はそもそもが摂関家の職員だった京の武士であり、中世から近世を通して見ても、むしろ文化的な資質が強い体質だったように思う。
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真面目な話、関ヶ原後の吉川広家による家康に対する弁明「輝元はバカだから安国寺恵瓊と石田三成に騙されたんです!バカだから!」を受け入れた家康も家康だけど、この弁明方針を許容した輝元も、人物として相当のものが有ったんじゃないかと感じないでもない。
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戦国期の『一向一揆』が宗教的熱狂から来る運動であり、ある種のカルト的現象だとする見方もまだまだ多いですが、実態を見るとあくまでその地域地域の中核寺院を権威とした集合に過ぎず、教義についてほぼ関係なく、何なら本願寺派同士で頻繁に争っており、宗教性を強調しすぎると解らなくなりますね
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織田信長の「安土城」は、知れば知るほど要害性皆無なので、そもそもアレは「城」だったのか?という疑問すら湧いてくる。ある種の「御殿」だったと見たほうが良いんじゃないかなあ。
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まあアレだ 「ね、頼朝の存在って物凄いものだったでしょ?」 #鎌倉殿の十三人
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中世に一般的に見られる「紛争を暴力で解決する」という感覚について、室町期くらいから法によってそれを抑制しようという働きかけが見られ、戦国期に至って「私的な暴力の行使はダメ!絶対!」として、法と裁判での解決への誘導、すなわち「喧嘩両成敗法」が生まれるのです。
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足利義昭が武田信玄の西上を契機に織田信長を切り捨てて反信長派に乗っかったことは、室町幕府滅亡に繋がる大きな判断ミスと評価されがちですが、室町将軍というのは劣勢になった味方を切り捨てるという事を基本的にずーーーっとしてきた人たちであり義昭はむしろ我慢しすぎたとすら言えたりしますな