401
しかし義村の手腕で三浦が大きくなりすぎたことが後々… #鎌倉殿の13人
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長く側近として仕えながら、実際には今ようやく、義時は源頼朝を完全に理解したということなのでしょうね。
#鎌倉殿の13人
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家康「敵とは言え人の死を喜ぶとは何事か!」
寿桂尼が死んだ時喜びのあまり踊りだした信玄「おっそうだな」
#どうする家康
404
残念ながらそれは信長のセリフではないw twitter.com/an_shida/statu…
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ここで信長は「武田を抑える」と言ってますが、この時期武田と織田は絶賛同盟中ですw #どうする家康
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何をどう解釈して本照寺をあんなFFとかに出てきそうな宗教軍事都市みたいにしたのかw #どうする家康
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逆にこういった事が割りとスムーズに処理されていた頼朝の有能さという事でもありますね
#鎌倉殿の13人
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今度のロシアのクーデターが結果としてどうなるかは別として、「負け戦ってこういうものかー」という感慨が深い
409
「上様は天下のことで精一杯」
実際この時信長は三好勢力との戦いのために畿内から身動きできない状況でした
#どうする家康
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現代社会では日本に限らずおおよそ世界的に、紛争は話し合いで解決するのが最前で、武力を用いるのは最後の手段、という認識が一般的であると思いますが、中世の武士においては紛争において相手を武力で屈服、殲滅させることが最善であり、話し合いなどは次善三善ある、という意識が間違いなくある。
411
坂井孝一先生の『承久の乱』から、鎌倉将軍の文化的素養について。源実朝が「天才歌人」であったというのは、同時代ではなくあくまで近代に入ってからの「再発見」「再評価」でしか無い事には注意が必要ですね #鎌倉殿の13人
412
ちなみに武田系の史書である『甲陽軍鑑』ではこの姉川の戦いを「信長は兵の少ない浅井相手に苦戦してた。あの戦いに勝てたのは家康のおかげ(意訳)」と評しています。まあここだけではなく甲陽軍鑑は信長への極端な過小評価が多いのですが #どうする家康
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何より天ぷらが入ってないのが偉いし家康への愛を感じる
家康公の好物、弁当に 静岡県飲食業生活衛生同業組合浜松支部(あなたの静岡新聞)
#Yahooニュース
news.yahoo.co.jp/articles/ccab4…
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清須対面ですねー。なお史学的にはこの対面自体存在しなかったと、現在考えられています #どうする家康
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歴史というのは多くの場合「ストーリー」として理解されると思いますが、それが良く出来たものならものほど、実際にはフィクション性が高いわけです。たとえ連続したものであっても、多くはそれぞれ独立した事実、事象なわけですから。「歴史を知る」というのは、ストーリー性の解体という面もあります
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江戸時代の「法律」といえば、武家諸法度や禁中並公家諸法度などが有名ですが、古代の大宝律令や養老律令といった律令、鎌倉幕府の御成敗式目、室町幕府の建武式目等も『全部有効』だった。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
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『吾妻鏡』健保元年五月二日条
和田合戦の勃発を知った北条義時はその時ちょうど囲碁をしていたが、この情報を聞いても驚き慌てる事無く、心静かに碁盤に石を置いたあと座を立ち、折烏帽子を立烏帽子に改め装束も水干に着替えて将軍実朝の元へ参ったとあります
#鎌倉殿の13人
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おおお、これはすごい
伊達政宗作「達磨図」90年ぶり発見 展覧会出品後、行方不明に (河北新報)
#Yahooニュース
news.yahoo.co.jp/articles/05d2e…
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と言うか『腰越状』の文章は全体的に非常に軍記物のノリが強く、書状でこんな事書くか?という疑問は出ちゃいますねw #鎌倉殿の13人
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畠山重忠は本当に最高の武士だな
#鎌倉殿の13人
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三方ヶ原の時は、家臣から在地の百姓たちから通りすがりの者たちまで、様々な人々が「家康の逃走を助けた」という伝説伝承が残っているのですが、静岡県浜松市にある山住神社には、この山住に家康が逃げ込んだ時、狼たちが一斉に吠えて家康を武田軍から守ったという伝承があるそうです。獣すら家康公を
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ハサウェイ見ながらふと思いついた鎌倉武士の倫理観
逃げれば1つ
進めば2つ
族滅させれば全部取り
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『吾妻鏡』建久4年8月17日条~。範頼は伊豆へと配流されますが、翌18日には範頼の家人たちが不審な動きを見せたとして誅殺、さらに20日には曾我祐成の同腹の弟とされる原小次郎という人物が範頼に縁座して殺されており、曾我事件への範頼の関わりを強く臭わせる描写となっています #鎌倉殿の13人
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昨今でこそ、豊臣秀吉の暗黒面についてはかなり広まってきましたが、10年以上前から戦国武将の中で実は秀吉が一番恐ろしいと、秀吉を「ラスボス」と呼んでいた2ch戦国板の人達はやはりレベルが高いと思う。
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幕府興隆の生贄であるかのように苦しみ、のたうち回りながら、その苦しみからの救いとしての死を迎えるわけで、物語としては「陰惨」とも言えるでしょう。そしてこの陰惨さは泰時期という例外はありつつも、基本的に鎌倉時代を通しての、この政権の終焉までの一面の性格ともなります。 #鎌倉殿の13人