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ガンダムっておそらくファーストから基本的には「議論による合意形成とかクソ覚醒した者が人類を導く」派と「覚醒とかいいからちゃんと話し合え意思疎通くらいしろ」派の対立だと思っているのですが、#水星の魔女 は割とそれを極端に構図として描いてる気がする
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そして三十日には、鶴岡若宮宝殿の屋根からカラバトが落下して死んだという事があり、人々は奇異に思ったとされ、翌七月条では四日、九日と立て続けに鶴岡八幡宮境内において土鳩、鳩の怪死事件が記録されており、当時の鎌倉の、怯えを含んだざわついた空気を感じさせます。
#鎌倉殿の13人
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家康が月代を剃る前と剃った後で、ドラマの雰囲気自体も大きく変わりましたね。偉いものです #どうする家康
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実朝、義盛とずーっと仲のいい描写してきたのがここで効くんだからホント脚本が凄いわ #鎌倉殿の13人
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和田胤長の鎌倉の屋敷は没収されましたが、その屋敷は一族である義盛に引き渡されました。ところが4月2日に北条義時は突然これを覆し別の者に与え、屋敷に在った義盛の代官を追い出したとあります。
#鎌倉殿の13人
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そうそう、よく戦国大名は「農村から兵を徴収した」と、今でも勘違いされがちなのですが(で信長が兵農分離で云々かんぬんとか)、実際には惣村にかけられた軍役で提供の求められた人材は、輸送などのための「非戦闘員」としてであり、基本的に戦国大名は「百姓」を戦力として期待していませんでした。
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WBC優勝の時の侍ジャパンの胴上げが割りとアメリカなどでも話題になったらしいのですが、「胴上げ」の由来は諸説あるものの、そもそもが神事、祭事における行事だったことはおそらく間違いなく、日本に(限らず)よくある、意識されていない宗教行為の一つであるとも言えますね。
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この家康の方針転換は武田を窮地に陥れ、信玄自信が「滅亡寸前」と言うほどの惨状となりました #どうする家康
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そういえば、北条義時が現状どんな立場で頼朝の政権に参画しているかというと、彼は「家子専一」、つまり頼朝の親衛隊長という立場なんですね。江戸期で言うと旗本筆頭といった所でしょうか。
#鎌倉殿の13人
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おお、現状ほぼ実在が否定されている信長と家康の清須対面 #どうする家康
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しかし信長自身もそうだけど、この大河の織田家描写は独特と言うか異様というか、あそこだけ本当に修羅の国じゃないですか。アレでいいのだろうかw #どうする家康
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なるほど、キリスト教は現実的に(有力者や地域領主にとっては)儲かったのだ。そりゃあ信心も積極的になりますね。僕だってそうするw
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この文覚の言葉で全て察するのだから、このドラマの頼朝は確かに一流ですねー #鎌倉殿の13人
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『甲陽軍鑑』に武田家の武士が「町人とかって武功をする人間は全員めちゃめちゃ剛力とか思いこんでるよねプゲラ」と町人の武士認識を嘲笑ってる描写があり、この大河は実にその「町人の認識」の映像化と言った観が #どうする家康
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しかし鎌倉がこれだけグチャグチャなら後鳥羽院じゃなくても早々滅びると思っちゃいますね、鎌倉幕府
#鎌倉殿の13人
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信長の「比叡山焼き討ち」ですが、「上洛戦」以降信長の家臣たちは近江の比叡山領を横領しまくっていたようで、その事について叡山も朝廷に訴えるなどかなり怒り心頭であり、志賀の陣で反信長の立場になったのもそこが大きいと思われる。実際志賀の陣の講和では横領された叡山領の返還が入ってるし
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このあたりの描写だけでも、義経が本当に戦以外出来ないんだなって理解できちゃいますねw #鎌倉殿の13人
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正直、大谷翔平はもう神話上の人物に近いとすら思える。ああ言う人と同時代を生きることが出来た、というだけでも大きな価値があると言い切れる。
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本能寺の時の秀吉も本当にたまたま運が良くて後世言うところの「中国大返し」が出来たし、光秀に勝利したのも自前の兵ではなく信孝勢と合流した結果、摂津衆を取り込めたおかげだし、「織田政権」の主導権を握ったのは「清須会議体制」崩壊の中でだし。秀吉陰謀論って実はハードルが高いのですよね
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徳川家康と今川義元の関係性について、家康が桶狭間周辺を通る時は義元への敬意を顕して必ず下馬していた、という話が割りと多く残っており、これも基本的には「家康は驕らない人物だった」と家康褒賞目的の逸話なんですが、それでも家康が義元を慕いこそすれ恨む対象では無かった事は伝わりますね
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毛利は、関ヶ原の印象と幕末の印象から、江戸時代を通じて幕府から警戒される「雄藩」だったと考えられがちなのですが、実際には江戸期を通して世間的に、幕末ギリギリの段階まで、何をやらせてもダメな「ボンクラ藩」という印象だったらしく。
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現在の研究では足利義昭は、この三方ヶ原合戦の時点では未だ信長との連携を守っていたと考えられています。義昭の信長からの離反はもう少し後ですね #どうする家康
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『吾妻鏡』建保4年(1216)11月24日条
実朝は陳和卿に言われた前世の居所である、宋の医王山を訪ねるため陳和卿に唐船の建造を命ずる。これに対し北条義時と大江広元が強く諌めたが、実朝は聞き入れなかった。
#鎌倉殿の13人