まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(リツイート順)

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『吾妻鏡』健保七年一月二十七日条では、義時が突然気分が悪くなったので、刀を源仲章に渡して退去したのだと書かれています。そもそも身分的に入ることが出来なかったと取れる愚管抄の記事と比較して、吾妻鏡の潤色であると捉えられる事もある記事ですね。 #鎌倉殿の13人
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江戸時代の「藩」の石高について「表高は○○石だが実際は××石」みたいな表現があり、例えば仙台藩は表高62万石だが実質百万石以上、とか長州36万石も実態は百万石とか、実際はかなり多いという使われ方をしますが、薩摩藩七十七万石、実際の取れ高は三十五万石くらいだったらしい。半分以下かよ
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実は三方ヶ原合戦も昨今様々な説が出ていて、当初双方に決戦意図はなく遭遇戦のような形で衝突したのではないか、というものも #どうする家康
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この時信長は畿内では、浅井朝倉、再統一三好家や本願寺といった反信長・義昭勢力が再び活性化して窮地に追い込まれ、さらに信玄の挙兵を受けて足利義昭が反信長義昭勢力に接近するなどもはや畿内の保持も困難と考えられる有様でした #どうする家康
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ここすき 執権 北条氏と鎌倉幕府 bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0…
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「豊臣家」、実は備中足守木下家や豊後日出木下家などは大坂の陣後も豊臣姓を名乗っており、幕末まで大名家として存続している #歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
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ところがこれを聞いた家康は「ハァ!?わざわざ三河から来たのに2番手とかナめとるんですか先陣やらせろ!さもなくばこのまま帰国する!!」と既に編成が終了していた信長を脅しあげて朝倉への先陣を勝ち取っています #どうする家康
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五月十九日、阿野全成に謀反の疑いありとして、源頼家によって派遣された武田信光により捕縛され、常陸国に流罪となったことを伝える『吾妻鑑』建仁三年(1203)五月条 #鎌倉殿の13人
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本当に義時の思考の在り方がどんどん頼朝化してますね #鎌倉殿の13人
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ここでは信長政権の体質を語っていますが、信長を継承した秀吉政権の体質も『際限なき軍役』と呼ばれたりします #どうする家康
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よく、一神教に比して「多神教の寛容さ」なんて根拠なく言われがちですが、これを読むと「多神教」社会の怖さも見えてきますね。「神様、どうか私の願いを叶えてください!だけど叶えなかったら焼き討ちしてお前を全否定してやる!お前の代わりの神様は幾らでもおるんや!!!」という
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戦国期、特に後期の「武田、上杉は天下最強」という評価、現代では様々な研究の成果等から「それは過大評価」という見解も多いと思いますが、実はこれ、信玄謙信が争っていた同時代から畿内でもそのように言われており、実態はともかく同時代の世間一般の認識でもそうだった、という事は確かなようです
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頼家が大江広元の邸宅で昏睡状態となった、というのは吾妻鏡ではなく『愚管抄』に出ている話ですね #鎌倉殿の13人
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戦国の焼き討ちツートップと言っていい人たちがここまで言うのですから守りませんとねw twitter.com/ashikaga_city/…
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実は徳川幕府は、正則の福島家や清正流の肥後加藤家の改易の際、出来ることなら取り潰したくないという意識に満ち溢れていて何度も保留しているし、肥後加藤家に至っては徳川家の親類ということで本当にギリギリまで存続を模索していた
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まさか #鎌倉殿の13人 の前に心挫けそうに成るとは #水星の魔女
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豊臣秀吉、よく父系を拒絶し母系、とくに母大政所を愛した、なんて言われがちですが、史料上見えてくるあの人、母についても大して愛情なんて持ってない感がすごい。「肉親」も手駒以上には感じていなかったのではなかろうか。
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『吾妻鏡』建保4年(1216)6月条によると、東大寺大仏の再建を担った宋人の僧、陳和卿が鎌倉に来て「当将軍(実朝)は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」などと言い出し、 #鎌倉殿の13人
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先週13人合議制が成立して今週早くも人数が欠ける。これぞ初期鎌倉幕府。天下草創は未だ終わっていないわけですね #鎌倉殿の13人
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まあ今週「逆賊」たる大岡弥四郎(大賀弥四郎)事件を描いて、来週長篠で徳川の歴史上、忠義の鑑ともいえる鳥居強右衛門を描くというのは、内容的にも非常に対照的ですね #どうする家康
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しかしこの大河、一連のお風呂シーンが合戦時よりスリリングである #どうする家康
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もう何と言っていいのか。なかなか言葉では言い表せない義時の最期でした。本当に記憶に残る大河でした。 #鎌倉殿の13人
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戦国三傑についてドラマなどでは面白くするために色々脚色されますが、史料などを素直に読むと、信長も秀吉も家康という人物を非常に高く評価し信用しているんですね。その信頼感についての歴史の結果からの採点は別として、家康という人は多くの人にそう言った印象を持たせる人格の持ち主だったかなと
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なので信玄の「西上」も、信玄の「家康だけはぜーーーーったい許さねえ!!!」という3年間溜まりに溜まった鬱憤が爆発した結果だと、これは信玄自信が表明しておりますw #どうする家康
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群参していた武士たちはことごとくこの命に応じた。むせび泣いて返答の出来ない者も居た。 彼らはただ、命を軽んじて恩に報いることを思った。 #鎌倉殿の13人 吾妻鏡では政子自身ではなく、政子の側で安達景盛が読み上げたとあります。