まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(リツイート順)

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家康が時計の構造を調査させたことが、江戸期の和時計や様々なからくりの成立に繋がったりする
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「織田信長は商業や経済を重要視し云々」という言葉、信長を解説する時枕詞のように使われがちなのですが、例えば安土城なんて当時の流通ルートから外れた場所に作ってしまい商人もろくに立ち寄らなかったために、後から商人に強制的に滞在を命じたり「楽市楽座」で招致しようとしたりと後手後手であり
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確かに浅井長政くらい、一般的なイメージと歴オタからの印象が異なる武将も珍しいかもしれない。世間的には義兄信長に背いてまでも義を貫いた義将、みたいな感じであり、歴オタ層的には『裏切り寝返り常習犯』
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今週に成って家康公が一気に、青臭さが無くなり海千山千の武将の雰囲気に成りましたね。いやあ、役者さんって凄い #どうする家康
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ちなみに『吾妻鏡』健保七年一月二十七日条では、義時は「突然気分が悪くなった」ために、源仲章に太刀持ちを変わってもらったとあります #鎌倉殿の13人
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「日本の武士は盾を使わなかった」みたいな言説が昨今妙に広まってる気がする。武士はその出現から盾は普通に使ってますからね。ただしそれは両手持ちで、所謂西洋騎士のような片手持ちの盾を使わなかっただけ。反抗を表す「楯突く」という言葉は文字通り、盾を地面に突き立てる行為を指しているわけで
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「北条氏展」という文字を見て、「ほうじょう…うじひろ?うじつら?そんな人居たかなあ」と30秒ほど本気で勘違いした夕暮れ
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『愚管抄』巻六より、実朝殺害についての記事 公暁は実朝殺害を成功させると三浦義村の元に行き、これを報告しており、義村もこの事件について何らかの関与が有ったことを匂わせますが、義村はこの事をすぐに義時に伝え、義村を通しての義時の関与も疑わせる所があります。 #鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』元久2年閏7月19日条によると、牧御方が奸謀をめぐらし、平賀朝雅を将軍として立てるため、現将軍である実朝を廃するとの噂が流れたとあります。今週はこの段階ですね #鎌倉殿の13人
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武家政権というものも、それぞれテーゼみたいなものがあって、鎌倉幕府は「御家人のための権力」、室町幕府は「北朝の守護者」だと考えているのですが、では江戸幕府は何かというと、端的に「元和偃武」、つまり日本における武力紛争の停止、であったと思っております
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ものすごい身も蓋もない話をすると Q:「何故『吾妻鏡』には、畠山重忠が無実であることがはっきりと書かれているのですか?」 A:「このあとの牧氏事件で北条義時が父・時政を追放したことを正当化するためです。」 というロマンもへったくれもない物になってしまい。 #鎌倉殿の13人
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昨日、「家康が初手から武田信玄を警戒していたのは今川家の信玄観を継承していたからではないか」みたいな話をしましたが、そういえば『甲陽軍鑑』に堂々と、「今川家秘蔵の『伊勢物語』を信玄が借りパクした。」と書いてありそりゃあ今川義元も信玄のこと信用する気にもならなかったでしょうね。
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まあ正直、令和の時代になってこんな古典的な長篠合戦三段撃ちを見るとは、という気持ちにはなっている #どうする家康
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少なくとも江戸期には、「刺し身」は一般的にもハレの日、お祝いの時に必須のごちそうとして考えられており、ただ嗜好というだけでなく、おそらく元々は、何かしらの宗教的な意味合いがあったと考えられる。
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正直上司から学んだほうがいいと思うぞ 若手ビジネスマンよ、仕事論は上司より武田信玄に学べ agora-web.jp/archives/22053…
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江戸幕府は商人たちからたまに「御用金」を徴収したけれど、兵隊は求めなかったなあ。 プーチン大統領、「志願兵」集めで大企業にノルマ…国営ロシア鉄道には1万人指示 : 読売新聞オンライン yomiuri.co.jp/world/20220905…
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徳川家康がその政権を確立したのは、関ヶ原での勝利という「武威」が大きいですが、彼の政権が定着したのは、その関ヶ原から大坂の陣までおよそ14年間、日本国内の戦争、紛争がほぼ停止された、つまり「平和」を実現したことが最も大きいと考えられます。
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ドラマの中では省略されましたが、『吾妻鏡』建久4年8月10日条によるお、範頼の家人・当麻太郎が、範頼の起請文への反応がないことに不安になり、頼朝の寝所の下に忍び込むという事件を起こし、この事で頼朝は範頼の叛逆を確信したとされます。 #鎌倉殿の13人
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今回のロシアのクーデター、歴史上の類似例についても色々な意見があると思いますが、個人的には現状、唐の「安史の乱」かなあ、などとも感じております
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鎌倉武士は野蛮か、という話について、まあ「野蛮」の定義にもよるのですが、中世という世界は武士以外でも、皇族高級公家から庶民まで、物事の解決方法として暴力を選択するハードルが著しく低いので、当時の日本社会一般の感覚からすれば、武士が特段野蛮という感覚はなかったと考えられます。
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世良田、徳川は「新田源氏」であり、当時新田源氏は幕府より「足利御一家」とされ、その家格を高く評価されていました。家康の改姓は敵対していた三河の吉良氏、そして今川氏が足利一門であったことからの対抗上のものだったともされます #どうする家康
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何というか、エピソードの起承転結は意地でも一話の中でやるという強い意志をずっと感じる大河だ #どうする家康
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平賀朝雅が牧の方に畠山重忠を讒訴したとされる、『吾妻鏡』元久2年(1205)6月21日条 #鎌倉殿の13人
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この、頼朝が九条兼実に、後白河が既に高齢であり、院が死去すれば後鳥羽天皇中心の政務(つまり九条兼実もその中枢に入る)になることはしっかり理解しているが、後白河院の聞こえを憚って天皇と疎遠のようにしているのです(意訳)、と発言した事は、『玉葉』に記されています #鎌倉殿の13人
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あと信長が比叡山や本願寺と戦ったからこそ、近世寺社は武士に屈服し武力を持つことが無くなったのだ、なんて言う人も居ますが、中世の寺社だってできれば本来筋違いで莫大な金食い虫である武力なんて持ちたくないんです。自力救済社会で権利を守るのに必用だから仕方なく保持していたのです。なので