まとめ管理人(@1059kanri)さんの人気ツイート(リツイート順)

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Kindle版が499円!これは本当に日本史や歴史的な日本人というものを見る目、感覚がある意味ひっくり返る本なので、未読の方は是非読んだほうがいいです。おすすめですー。 喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ) 清水克行 amazon.co.jp/dp/B07G2V2M51/… @AmazonJPより
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現代の極端に戦闘的な「薩摩隼人」イメージは、絶望的な戦況の中で「狂戦士」に成らざるを得なかった西南戦争時の西郷軍のそれを過去に訴求させた面が非常に多いと思っている。太平洋戦争末期の特攻玉砕の日本兵士像が過去に遡及されたようなものかと。
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義時「私一人のために鎌倉を灰にするわけには」 ボク将「和田の乱で割りと灰燼に成りましたよね鎌倉」 #鎌倉殿の13人
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北条政範の京での急死を伝える『吾妻鏡』元久元年(1204年)11月13日条。またこの事と、この直前に京で畠山重忠の嫡男・重保と牧の方の娘婿である平賀朝雅とが口論に及んだ事が、北条時政と重忠の関係を一挙に悪化させたともされます。 #鎌倉殿の13人
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こちら運慶肖像とされる木像。似てる #鎌倉殿の13人
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今日も中世の現実を見て心を落ち着かせよう
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真面目な話、「新しい家康像」を謳っているものの、このドラマのベースの歴史観って、江戸後期くらいに形成されたものですね #どうする家康
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これ一冊読んだら、まあ大体、戦国武将に変な思い込みや妄想をすることはなくなると思う。良書。
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徳川家康を支えた三河武士はよく「質実剛健」などと言われたりしますが、あの人たち、その「質実」で溜め込んだものを甲冑や武装に注ぎ込んで戦場にいかに派手で目立つかを競っていた感がある。ある種のカーニバル体質。
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ちなみに、ここでは馬上、剣で一騎打ちをしていますが、鎌倉武士の一騎打ちに用いる武器は、実際には「弓」でした #鎌倉殿の13人
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かつての頼朝と義時の関係性が、今は義時と泰時の関係性に #鎌倉殿の13人
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西郷隆盛とかも、一般的には大度量大寛恕の人とされているのですが、同時代史料、特に本人や薩摩藩のものを見ると、好悪が非常にはっきりしていて一度敵認定すると関係者まで含めて終生嫌い抜く執念深く心の狭い人物像が出現し、「世間のイメージ」なるものがいかに信用ならないかよく解るわけで
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一方『吾妻鏡』には、元久元年(1204)七月十九日条に「昨日頼家が亡くなった、という知らせがあった。」とだけ記されており、源頼家の死去が、北条氏にとって相当に後ろ暗いものであったことが伺えます。 #鎌倉殿の13人
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実は家康と今川氏真の講和(明らかな徳川武田の約定違反)以降、苦しみ抜いたのは武田の側であり、家康はその外交的優位を用いまくって武田を徹底的に押さえつけました #どうする家康
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まー、現実的に言えば、長篠の戦いで勝利するまでの信長は、家康にこんなに高圧的に接することのできる立場ではないですねw #どうする家康
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実際『愚管抄』には、頼家は後継者を一幡とし、さらにその後見人を比企能員に決めたとありますね。つまり比企側には強い正当性が在った #鎌倉殿の13人
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『吾妻鏡』元久2年(1205)6月22日条、鎌倉は大変な騒動となり、畠山重忠はこのため鎌倉に駆けつけたところ、そこで初めて討伐対象が自分であることを知る、とあります。 #鎌倉殿の13人
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ものすごく古典的で俗的、陳腐なユダヤ陰謀論の一つで、現在のロシア首脳部というものがどんな世界観の中に有るのか端的に表していると思う twitter.com/YahooNewsTopic…
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こちらが義経の最期を記した『吾妻鏡』文治5年(1189)閏4月21日、30日条。 ドラマの中では義時の働きでしたが、こちらでは朝廷より藤原泰衡に圧力がかけられ、その結果、泰衡が義経を襲ったという流れになっています。 #鎌倉殿の13人
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まあ現実的には、徳川軍の中には織田の援軍も織田に属する国衆も入っているのだから。こんな八百長してたらすぐ発覚しますね #どうする家康
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あんな理知的で冷静な畠山重忠であっても、本質的には抜身の刀を隠そうともしない坂東武者である事が実に見事に演出されていたと思う #鎌倉殿の13人
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最初と終わった直後に「徳川家康」が出てきて、やっぱり家康は「武家政権」「武士の世」というものの、救い主という位置づけがされていると感じてしまいましたね。 #鎌倉殿の13人 #どうする家康
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織田信長が仏教勢力と戦ったように「見える」のは、はっきり言えばなりゆきとたまたまの積み重ねを後世の価値観で偏った評価をしたにすぎず、信長は当時の価値観の範囲内で、おおよそ現実的に、常識的に対処していたに過ぎない、という事です。
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なお長篠の戦いは、基本的には勝頼vs家康の合戦であり、信長勢はあくまで「援軍」という形でした。よって戦場で武田と主に戦ったのも当然ながら徳川軍でした。 #どうする家康
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またこの事について「信長は仏教を否定したのではなく、仏教など宗教勢力が武力を持つことを否定していたのだ」なんて事を言う人も結構居ますが、信長は「武力を持った仏教勢力」そのものである根来衆とその死去まで同盟関係にあり、別に嫌ってません。